「荒島岳の新下山コース」の中で書かなかったことがあり、それは下山途中で気がついた車の鍵の紛失である。
山頂で30分ほど過ごし久しぶりの眺望を楽しみ登ってきた道を引き返した。厳しい登りを上から眺めるようにして、ここを来たのかという感慨をなんども覚えながら、下りた。山頂からの主稜線を外れ、かなりの傾斜の下山道をロープを頼りに下りて、朝登りの時に休んだと同じところで小休止をとった。
ウエストポーチの三つあるポケットの真ん中のポケットのファスナーが少し開いているのに気がついた。あっと思った。そこに車の鍵を入れておいたのを突然思い出した。嫌な予感がした。慌ててファスナーを開いて中を見た。入れたはずの鍵がなかった。他の二つのポケットにもなかった。3年前に買った車で初めて無線式に解錠する鍵を使い、これは便利だと嬉しくて使っていたその鍵である。どこで落としたのか、もちろん分からない。引き返して探しに行こうかと思ったが、この急傾斜の道を登り返しても出てくる可能性は小さいし、時間もかかるし、第一その気になかなかなれない。あきらめて下りた。
帰宅して山岳会の友人に事情を説明し、いっしょに探しに行ってもらえないかと頼む。いいよ、という返事だった。行けばあるか、と思ったが、やはりこれは遺失物なので警察に届けるのがまずもってするべきことだと思い、大野署に電話した。山での行動時間、どのルートだったか、どのような鍵なのか、いろいろ詳しく聞かれそれに心を込めて回答した。「分かりました。出てきたらこちらから電話しますので」と言われた。
山に行ったのが2016年6月10日の金曜日、翌日は土曜日でその翌日は日曜日、百名山の荒島岳にはたくさんの人が行くだろう、だれか見つけてくれるかも知れない、そんな期待があった。
6月13日の月曜日、大野署から連絡がなかったのでこちらから聞いてみた。「何も届け出はありませんでした。出てきたらこちらから連絡します」とても事務的に聞こえた。
探しに行ってやると言ってくれた山岳会の友人には、土曜日日曜日の両日で出てこなかったことから、もうダメだと思い、探しに行くのを止める旨連絡した。
6月20日、机に座って本を読んでいたら右にある電話が鳴った。「大野署ですが早川博信さんはいらっしゃいますか」午前10時28分であった。「昨日届け出がありまして、落とされた鍵のようなので連絡差し上げます。今少しよろしいでしょうか」
「大野署・・」と耳にしたとき、何かが全身を走った。出てきたのだと思った。
「昨日、荒島岳の山頂にあったと鍵が届けられました。拾った方は、お訊きしたのですが、名前を告げられずお礼も要らないと言って帰られました。」嬉しいのをどう伝えて良いのか分からないくらいであった。「嬉しいです。ありがたいです」と同じことを繰り返して喋っていた。興奮して警察署の方の言うことをしっかり聞かず、ただ嬉しいとばかり繰り返していた。
「確認したいことがあるのですが、キーホルダーはどんなでしたか」 最近とみに記憶が落ちてきている自覚があるので、必死に思い出し、「英語でハードロックと書いたホルダーです」と言った。電話の向こうで担当の女性が微笑んでいるように感じた。「はい、分かりました。鍵はあなたのであることを確認しました。それではどうされますか。取りに来られますか」
申し訳ないけれど送ってもらうわけには行かないだろうかと頼んだ。いろいろ必要な書類に書き込んでもらえばそれを受け取ってから手続きをしてそちらに送ります、着払いになります、という返事だった。
「いいお仕事ですね」と嬉しくて嬉しくてそう伝えた。「こんなに喜んでもらえるとこちらも嬉しいです」と電話の向こうの担当の方の声も楽しそうであった。
鍵が出てきたこと、それを届けた人が何も言わずに去ったことなどを、いっしょに行った二人と探しに行くのを頼んだ友人に伝えた。よかったね、まだいい人入るのだね、とメールが来た。本当にそう思った。警察のシステムもたいしたもんだと思った。
電話をもらった翌日、6月21日、大野署から郵便が届き、そこには「物件送付依頼書」と「受領書」が<記載例>とともに入っていた。記載例に倣いすぐに必要事項を書き込んで返送した。
翌日、また大野署から電話があった。「運転免許証のコピーが同封されていなかったのですが」。嬉しくて慌てて出したものだから肝心なものを入れ忘れた。「ファクスで送ってもよろしいでしょうか」「良いですよ」
コピーもできる複合型のプリンターで免許証のコピーをとりファクッスで送信する。うまく届いたか、それでよかったのか、確認の電話を入れて、今日中にお送りしますのでと返事をもらい、あとは受け取るだけになった。
6月23日、大野曙からゆうパックの着払いで鍵が届いた。空気の入った丁寧な梱包に包まれて鍵が入っていた。担当者の、大野は刈込池などありすてきな街なのでまた遊びに来て下さい、と手紙が添えられていた。鍵はいい人に拾われていい人の事務処理を経て戻ってきた。
10日ぶりに無線式の鍵で車を解錠した。前方の両方のスモールライトが両眼をウインクするように点滅した。
天国から愛をこめて
グレーからの贈り物だと思います。スモールライトの (グレー)ウインク・・・・・・・泣かせます。
よかった、よかった・・・・・・・
今度のことで一番感じたのは、警察の遺失物担当者の善意でした。また、出てきたら誰かに届けるのだという意志が明瞭なシステムにも感銘しました。もちろん、すべては、、拾ったものを届ける人がいて初めて成り立つのですが。