膵がん闘病記_1年が経過して


大文字の火床から見る京都市内

(大文字の火床から京都市内を望む、快気報告登山の日)

Ⅰ、はじめに

1年ぶりのブログ更新が闘病記になった。しかも、あまり良くない膵がんの闘病記である。しかし、手術後1年が経過し、その間再発の兆候は認められず、1年経てばまず大丈夫かなと思えるので、あとさらに1年後に「大丈夫だった」といえることを期待して闘病記の報告値となった。

2022年3月に胆管炎を発症し、それから膵がんが見つかり、10時間にわたる手術を受け、ステージⅡBの膵がんだったので術後5年生存率が20%と知り、緊張と不安でくじけそうになったが、それもなんとか乗り越えて目下戦っている最中である。戦うと言ってもそれほど悲壮なことではなく、病に負けてたまると思いながら、ごく普通の日常生活を送っている。3カ月毎にあるCT検査(再発チェック検査)に緊張するくらいだ。

73歳でエベレストBCのトレッキングに行き、出かけるときは血圧の薬が常備薬だったのにトレッキングから帰ってきたときにはその薬も必要なくなり、自分では健康そのものだと思っていたのに、胆管が詰まり胆管炎を発症した本当の原因が膵臓ガンだったとは。まさに青天の霹靂だった。体重は10キロほど減ったが、いまは山の仲間とぼちぼちだが山にいけるようになり、登って下りて5,6時間は歩ける。以下の闘病記はひとえに自分のためであるが、記録を残すことでだれかのなにかの役に立てばもう言うことはない。

Ⅱ、地元の病院で応急処置

2022年3月14日夜、体温が37度、39度と上がり、みぞおちのあたりの痛みが耐えがたくなり地元の小浜病院に走った。造影剤CT検査とエコー検査で胆管が詰まっている、即入院、下手をすれば胆管が破れ、そんなようなことがあれば今夜にも逝く可能性があると言われた。それは起こらなかったがこのときの一晩過ごすときの辛かったこと。

「ここ数日みぞおちのあたりが痛んでいた」とその日の日記に書いてある。実は、発症する前、3月8日と11日に山に行っている。8日が湖北武奈ヶ岳(865m)、11日が銀杏峰(1441m)で、いずれもしっかり雪を踏んでの山行で、行動時間は5時間から6時間だった。さらに、13日は定年後地元活動のひとつとしてずっとやって来た「名田庄多聞の会」の会の司会をして、その日の夜は講師として招いた元国立極地研究所所長の渡辺興亜さんを我が家で歓待していたのである。よく、これらの時に発病しなかったものだと、今から思うと「ついていた」と思うと同時にぞっとする思いもある。

3月15日、内視鏡超音波検査で病名が分かる。膵臓内乳頭粘膜性腫瘍。膵臓には主膵管と分岐膵管とがあり、主膵管の末端部(十二指腸乳頭部と呼ばれている)は、胆管末端と合流して十二指腸に繋がっている。膵臓のこの部分に腫瘍が出来て胆管を詰まらせたという説明を受ける。「沈黙の臓器」膵臓が、別の原因で悲鳴を上げたことになる。膵がんの自覚症状が出たときは大概手術できないレベルで死亡率はとても高い。その点からも「ついていた」ことになった。この膵臓内乳頭粘膜性腫瘍が悪性なのか、そうでないのかはその時点ではまだ分からなかった。

3月15日の手術は詰まっていた胆管に鼻から細い管を入れ、それを通して胆汁を外に出すというもので、右の鼻から細い管が出てその先に袋があり濁った汁が出てくる。これが結構な量でびっくりする。これだけのものが体の中で流れているのだ。

3月18日にさらに別の応急処置の手術を受ける。この日の手術は、鼻から通して胆管まで達していた管を抜いて、今度は胆管の中に細い管を入れて固定すること。これにより、胆管の中の流れがスムーズになる。これでずいぶん楽になった。しかし、いずれも対処療法で,詰まった原因は腫瘍なので、その腫瘍を取り除かねければならない,腫瘍の大きさとそれがどこまで広がっているか、主管だけなのかそれとも分岐膵管まで腫瘍ができているのか。

地元の病院でできる応急処置はここまでで、このあとはどこか大きな病院で精密検査をして上記のことをしっかり調べてもらい本格的な手術をしなければならない。この時点で京大病院でやってもらおうと心に決めていた。悪性ならどれくらいの生存率なのか、膵がんは怖いという一般常識から不安な気持ちを払拭することはできなかった。入院中、時々ネットを覗いて確認していた。読めば読むほど不安になる記事と、そうでない希望を持てる記事との間で揺れていた。入院した14日から18日までは絶食+点滴の日々だった。19日から食事にありつけた。嬉しかった。

コロナ禍、入院すると病室から出られず、また家の者も訊ねることができず、六階にいたので窓際に目立つ赤い色の布を出して部屋を示し、それに向かって孫達が手を振ってくれた。こちらも病室の中から手を振った。3月23日、小浜病院を退院できた。入院していた10日間ほどで体重が3キロ減って57キロになっていた。これくらいなら仕方ないかと思った。

ところが。3月25日、胆管に入れた管が短くて細かったので再度胆管が詰まり痛みが生じ、再び地元の小浜病院に入院する。痛みは痛み止めでなんとか納まった。最初に入れた管を太くて長い管に交換する手術を28日に受けて、これでもう大丈夫、痛みは出ないと言われた。30日まで小浜病院にいて30日に退院した。久ぶりの家であった。ここまではあくまでも応急処置で本格的な手術はこのあと京大病院で受けることになる。

Ⅲ.京大病院に検査入院

4月15日(金)、京都大学医学部附属病院(京大病院)に入院の日である。山に持っていく大きなザックに衣類や本やタブレットやコップなどを入れて、前日京都駅前のホテルに泊まった。妻が付いてきてくれたので、一緒にバスで病院に行く。

病院の中庭から大文字山の「大」の字が見える。入院手続きはスムーズに終わり、六階の肝胆膵・移植外科に行く。午後、胸と腹のX線検査、それに心電図を取った。心肺機能が手術に耐えられるどうかの基礎的なチェックと転位のチェックだったのだろうか。これでこの日の検査は全て終了し、翌日、翌々日と何もなく、月曜日の18日に超音波内視鏡検査をしますと聞いた。小浜病院でしたのと同じ検査である。

こうして病院生活が始まったが、大きな手術で入院するのは初めてである。これまでした手術は、前立腺肥大、痔瘻、緑内障と3回、いずれも1週間に満たない入院期間であった。今回は検査入院後に手術が待っているのでどれくらいの期間になるのか分からなかった。検査が終われば直ぐに手術かなと思っていたが、結果的には、検査入院が18日、その後12日間の休みがあって、実際に手術をして入院していた期間は18日間だった。早く手術して欲しい気持ちだったので検査入院期間が長くて驚いた。

以下簡単に、行われた検査とその目的、および検査入院中の生活について書く。検査の目的はネットの記事から引用した。いちいち引用サイトは明記しないがほとんどすべてコピペである。

・4月18日(月)、超音波内視鏡検査(EUS:Endoscopic Ultrasonography)
「先端に超音波プローブをつけた内視鏡を口から入れ、胃や十二指腸から膵臓の病変を確認する検査で、体の外からプローブをあてるよりもずっと近い距離から膵臓を観察できるため、詳細な画像を作ることができる。病変部に針を刺して組織を採取する超音波内視鏡下穿刺せんし吸引生検(EUS-FNA)が行われることもある。」

超音波内視鏡検査のため朝から絶食で検査に備えていたが、実際行われたのはお昼を回ってからであった。すっかりくたびれて昼食用のコンビニ弁当を買うのに地下にあるローソンまで車椅子に乗せてもらい、看護師の方に押してもらい店内の棚を車椅子で見て回り食べ物を買った。もう本格的な病人気分であった。この日は生検(生体検査、身体の組織の一部を取ってがん細胞などの有無を調べる)はなかった。

 

・4月21日(木)、内視鏡的逆行性胆管膵管造影(ERCP:Endoscopic Retrograde
Cholangiopancreatography)検査、および胆管に管を入れて胆汁を出す手術。
「口から内視鏡を入れ、先端を十二指腸まで進めた後、十二指腸乳頭(膵管と胆管の出口)に細い管を通して造影剤を注入し、膵管や胆管をX線撮影する検査で、この際、膵管内の細胞を採取する膵液細胞診検査が行われることもある。」

この日の検査後の手術は、小浜病院で入れた胆管内のステントを抜き、そのために胆管が詰まらないよう、胆管に鼻経由で細い管を入れて胆汁を出す手術だった。けっこうたくさん胆汁が出てくる。濃い紫色。看護師さんは「きれいな色ですよ」と言う。鼻にクダを付けたまま食事をする。

体外に出てくる胆汁の量が多いのでどれくらい外に出ているのか聞いたら、約半分ほどだという。これほど出るのなら水はしっかり飲まなければと思った。それと半分も捨てているのに消化できているのもすごい。看護師さんが付け加える、「ずっと管をつけて外に出している人は,出した自分の胆汁を飲みます」と。これにはびっくりした。どんな病気なのか。

・4月22日(金)、肝胆膵部のMRI(単純検査と造影剤検査)、それに加えてPET/CT。
検査結果についてはこの日特に説明はなかった。PET/CTで放射性同位元素を注入してからそれが体内に巡っていくまでの一時間、安静にしていなければならず、この時間が長く辛かった。注入した同位元素は炭水化物親和性があり、がん細胞は炭水化物を普通の細胞より多く消費するので、そこに集まることでがん細胞の場所を特定できるのだが、本を読んだり、音楽を聴いたり、何かを見たりすると、それらを司る場所で炭水化物の消費があり、そこにも注入した同位元素が行って間違った情報を与えることになるから、それらの行為は駄目だという説明を受ける。何もしないことはなかなか出来ない。大変だった。

・4月25日(月) 4時から家族説明会
これまでの検査結果と今後の方針について家族に説明があった。妻と息子が同席してくれた。主治医からの説明の概要は下記の通り;

(詳細な記述になりますが、なにかの役に立てばと思い記することにする)

・生検の結果はまだ出ていないが、超音波内視鏡でしこりが確認されたので、まず癌であることは間違いないと思われる。(数日後、生検から癌であることが判明した。)

・癌かどうか確定することと、癌の種類を確定することで効果的な治療ができる。癌の種類を確定せずに抗がん剤を選定すると効かないことがある。

・PET、MRIの結果から他臓器への転移は確認できなかった。

・癌と仮定すると、癌は膵臓から発生し胆管にも浸潤している。

・膵がんの標準的な治療方法は、術前に化学療法(抗がん剤治療)、手術、そして術後にも化学療法(抗がん剤投与)であるので、この方法で今後治療を行う。

術前に化学療法を行うのは、主要部位周りの小さな癌を抗がん剤でなくし、その後切除することで再発しづらくするためである。

①術前処置(抗がん剤治)
術前は点滴と内服薬の二種類で行う。

点滴:ゲムシタビン(1週間に1回、2週続けて1週休み)
内服薬:エスワン(14日連続服薬して7日休み)

上記を1クール(3週間)として2クール(6週間)実施。2クール実施後、2週間間隔をあけて手術を行う。

②手術
術式:膵頭十二指腸切除
膵癌部分、胆管、胆のうを切除して切除部分を十二指腸とつなげる。切除と接合が多いため、手術時間は8時間ほどかかる予定である。
十二指腸をつなげる理由は胆汁などを十二指腸に流すため。

③術後処置
エスワンを半年服用

・4月28日(木) 検査入院中の最後の手術と抗がん剤の副作用説明
しばらく自宅で化学療法を続けるので、その間、胆管炎が発症しないよう、胆管がスムーズに流れる手術(胆管にステントを入れる手術)を受けた。午後、薬剤師の方から今後用いられる抗がん剤の副作用について詳細な説明を受ける。食欲不振や吐き気、下痢、口内炎などは自覚できる症状で、その他、骨髄抑制(免疫力の低下)や肝機能障害は血液検査でしか分からない項目だが、しかし最近の薬は「昔のようなことはありませんよ」と、薬剤師は言われた。やってみるしかないと思った。副作用ありませんように。

・5月2日(月) 検査入院退院の前日、そして最初の化学療法(抗がん剤点滴)
最初の点滴をこの日受けた。医師自ら点滴針を指した。抗がん剤の場合は看護師がやるのでなくて医師がやるのが京大病院のルールと聞いた。これと言った自覚症状は出なかった。夕食後、内服薬エスワンを飲んだ。今後服用する抗がん剤である。これがこれから2週間にわたり、朝夕二回、食事後に飲むことになる。お昼ご飯は握り寿司だった。それを家に知らせたら、お寿司は無事退院できたことのご褒美でないかと言われた。納得である。病院の一階に郵便局があるので、そこで大型のゆうパック専用の段ボールを買って入院中の荷物を詰め家に送った。

・5月3日(火) 退院
退院の日。昨日から始まった化学療法は今のところ吐き気や下痢や食欲不振などの副作用は全く出ていない。病室の荷物を大きなザックに詰める。ザックがパンパンになった。お世話になった看護師さんにありがとうと、ナースステーションにお礼を言いに行った。「次の手術に向かって頑張りなさい」と,どなたも励ましてくれる。荷物でパンパンになったザックは、まるでこのまま山に行くような形になった。看護師さんが「これから山に行くみたい」と言う。早くそうなりたい。病院の中庭からいつも大文字山が見えていたので、快復したら快気登山をして、お世話になった先生や看護師さんに報告に行くのだと心に決める。

Ⅳ.手術のために入院する

①、手術前

2日から始まった術前の化学療法は5日後に副作用が出た。予め聞いていた吐き気や下痢や口内炎ではなく、説明の時になかった発疹だった。最初下腹部に出てそれが背中にも出て腹部の周りを一周するような太いベルト状の赤い発疹になっている。痒みはほとんどなかった。何かあれば地元の小浜病院に行くように言われていたので直ぐに行った。症状を見て抗がん剤の服用は止めた方が良い、その後のことは京大病院の指示に従ってと言われた。京大病院の判断は、術前の化学療法は止めて手術を行うということだった。手術のための入院が5月18日と決まった。

術前の化学療法で副作用が出たのは点滴に依るのか服薬に依るのか判明しなかったが、もし服薬に依るのなら術後の化学療法はなんともないのだろうかと心配になった。

5月18日、一人で病院に来て入院手続きを終えPCR検査の結果が出るまで個室で待機していた。手術は二日後の20日になった。コロナ禍なので妻は当日来てくれるがどんな風にして会えるのかまだ分からない。

執刀医の先生から1時間半にわたり手術の詳しい説明があった。実際、どうするか、どこを切除してその後どうするか、消化器系の手術なので臓器を切ったりつないだりする。そのことはあまり心配していなかったが、合併症の説明にはまいった。どの程度起こるのか、怖い話ばかりで途中から説明は右の耳から入り、直ぐに左の耳から抜けていった。

医師の説明のあと、担当看護師から術後HCU(高度治療室)に三日入るので、その時の注意事項について説明を受けた。いろいろ大変なのがよく分かった。床ずれや、せん妄や、排泄行為など。

手術の前日。まず麻酔科で全身麻酔をしても大丈夫かどうかの検査があった。問題なしだった。「手術は心配ですか」と訊かれて全くありませんと答えた。そのあと、四人部屋の病室で「臍のゴマの掃除」があった。ゴマはいわゆるアカなので、開腹した時病原菌として悪さをするので、予め取り除いておく,という説明だった。看護師さんが取ってくれた。それから、さらに、これは医師の仕事だったが、明日の手術が開腹であることを示すため臍の上にマジックで丸をつけられた。どこを切るか間違わないためだと聞いた。手術は医師が4人か5人、麻酔に準備も含めて1時間半ほどかかり、実際の手術は7時間から8時間という説明だった。

②、手術
5月20日(金)、7時に皮膚を麻酔させるテープを手の甲に貼った。ここから点滴を入れるので、手の甲は針を刺すと痛いのでそのための麻酔という。妻は麻酔の部屋まで歩いてついて来てくれる。

手術室に入っても特に恐怖感はなかった。麻酔がいつ効いていつから手術が始まったのか全く分からなかった。部屋に入って直ちに終わり、あいだの時間がなく、気がついたらHCUのベッドの上だった。実際は朝の8時に手術室に入り、出たのは夕方の5時頃だったらしい。待合室で妻と息子が執刀医の先生から説明を聞いてくれた。それがその時の息子のメモである。

・腫瘍部分は手術で取って、切除した部位の周りには目で見て癌化しているところはなかった。
・実際の腫瘍は臓器内にあるので目視確認はできないけど、しっかり取った。
・思ったより早く終わったのは、痩せていたため手術しやすかったから。(後日執刀医の先生から、血管のまわりに脂肪が付いていなく血管があんなにきれいなのは初めてだったと聞いた)
・手術で腫瘍は切除できたがこれで治療完了ではなく、ここからがまた大事になる。再発の可能性はあるので、術後の抗がん剤治療はしっかりやって再発率を下げていきたい。
・順調なら2週間ほどで退院できる。

③、HCUから個室、そして一般病室
身体には確か7本の管が入っていた。背中に術後の痛みを和らげるための麻酔の針が入ったままで、両足の付け根に腹水を出すための管が2本、首の右側には太い目の点滴管、水分と栄養を入れるためである。排尿の管も入っている。あと、どこか忘れたが管が延びていた。このHCUの三日間の辛かったこと、身の置き場がないというのを初めて経験した。これもいずれ過去になる、過ぎ去る、と思い耐えた。看護師さんの話では「男の人は弱音を吐きます、女性はそうでもない。早川さんは弱音を吐かないですね」と言われ元気づけられた。

トイレに行けないのでおむつに排便する、これが一番辛かった、情けなかった。取ってもらわなければならない。両ふくらはぎには自動のマッサージ器のこぶが上から下へと押さえるところを変えて動いている。エコノミー症候群にならないためだ。ふくらはぎは第二の心臓と教わった。足の先まで来た毛細血管の血を再び心臓へ送り返すらしい。このマッサージは心地よかった。

術後3日、個室に移った。部屋に来られた医師の一人から「大工事でした」と言われた。内臓の付け替えだからそうなのだろう、こんな冗談半分のことを言ってもらえるのは手術がうまくいった証拠だと思い、ちょっと安心し嬉しかった。毎日傷口を見に来る看護師さんは誰もが「きれいですよ」と言う。聴診器を当てて「腸もしっかり動いています」と言われる。5日後には点滴から重湯になった。お湯とどう違うのかと思うくらいの薄さであった。大工事でも重湯でも術後は歩かなければならない。そのほうが治りが早い。強制的な歩行訓練である。寝てばかりなので足に力が入らず、頭に血が行かずベッドから立ち上がると転びそうになる。支えられて廊下を歩く。立ち上がったとき80以下の血圧が帰ってくる頃は130まで上がる。

術後7日、朝から絶食(といっても重湯の絶食だが)で、合併症を診るためのCT検査があった。何も問題なし。血液検査の結果からも同じ結論だった。昼食から三部粥が始まった。おかずが三品あって,それを見たら本当に涙がこぼれた。ボロボロ泣けた。この先美味いものを食わずにどうするのだ、絶対元に戻って食べるぞ、思いっきりおいしいものを食べるぞと、そのとき真剣に思った。

術後9日、五分粥になった。食事らしくなってきた。デザートにアンパンマンの煎餅が二枚入った袋が二袋付いていた。嬉しくて家族に写真を添えてメールで伝えた。

術後10日、首の右についていた最後の管を抜いてもらう。結構長かった。抜く時の痛みはなかった。これで全ての管が取れた。何の支えもなくあまり心配せずに歩けた。管なしでシャワーをあびる。入院以来である。長い廊下を端から端まで、オートロックのドアーのところまで歩いて往復した。

術後11日、この日から全粥になった。しっかりお米が見える。9時過ぎ、医師団の一人,の先生が来られ、切開した腹を止めていたホッチギスを取ってもらう。取るときの痛みが心配でどの程度かと予め看護師さんに訊いたら「鼻毛を抜くくらいです」と言われたが、実際はそれ以下だった。ホッチギスは30本以上あった。ポチンプチンと音がして取れていった。これで人工物のない体になった。

退院前日
明日退院できる。膵臓の20~30%を切除したので、管理栄養士から退院後の食生活について説明を受けた。ごくごく大雑把に言えば、「基本的には制限はありません。脂肪分が多い食品は全くダメではなくて食べてみて具合が悪ければやめる。体調のすぐれない時のみ量を減らして様子をみる。」これだけだった。ほっとした。

糖尿病もあるのでそれを含めた注意事項は以下のようであった。

① 糖尿のカロリー制限の食事制限は守る。食欲はとても大切だから、どうしても食べたい時は表3のタンパク質のところで増やす。無理に制限すると、おいしいものを我慢すると、糖分の方が増えてしまう。こっちの方が良くない。
② 食欲のある時は、一日3回で食べる。分割するとどうしても量が増える。食欲のない時のみ分割して食べる。
③ 便が柔らかいか固いかで、消化を助けるために飲んでいるリパクレオン150mgの量を変えなければいけないので、便の状態に注意すること。下痢したり便秘になったりしたら医師と相談すること。
④ 体重は徐々に増えてくる。これまで絶食とか手術後の傷・回復などに栄養分が行っていたが,これからは徐々に体のためになっていくだろう。海藻やキノコ類は脂質と関係ないので食べればいい。ただし、良く噛んで食べること。玄米も良く噛んで食べればいい。
⑤ アルコール類は先生の許可が降りてから。膵臓は数ヶ月で完治するだろう。

このあと、担当医の先生から手術の全体的な説明と今後の再発防止のための治療行為について説明を受けた。息子と妻が同席して聞いてくれた。メモは息子が取ってくれた。以下がそれである。

1)、切除片の検査結果
摘出した臓器をスライスして癌の場所を特定した。切除したところの切除面ぎりぎりにも癌が確認された。切除した臓器中のリンパ節にも癌の転移が確認された。

リンパ節の転移があったためステージはステージⅡB。ステージⅡBは外科手術可能の限界のステージである。癌のTNM分類はT3N1M0。
(TNM分類の見方は下記です。ネットから引用)
「原則として「T」ではT0で原発腫瘍なしを表し、原発腫瘍が大きくなるごと、または浸潤度が高くなるごとにT1からT4に分類される。「N」ではN0でリンパ節転移なしを表し、より広がりが大きくなるごとにN1からN3に分類される。「M」では遠隔転移があるかないかでM0かM1に分類される」

先生としては見える範囲の癌は切除したが、上記の検査結果から見えないところに癌が残っているかもしれないことは否定できないとのコメントだった。

2),癌の種類
膵臓癌の場合、約6割は湿潤性膵管癌で手術前に想定していたのも湿潤性膵管癌だったけど、わたしの場合はコロイド癌(全体の数%の珍しい癌)と診断された。症例が少ないものの、コロイド癌のほうが湿潤性膵管癌よりも予後は良い傾向にある。

3),今後の予定
予後治療として、TS-1(市販名、エスワン)を服薬することで残っているかもしれない細かい癌を治療する。TS-1の投与スケジュールは4週間飲んで2週間休み。この     サイクルを1セットとし、4セット(約半年)を基本とする。副作用の様子をみて投薬サイクルは調整する。

説明は以上であった。化学療法(抗がん剤投与)に用いる薬剤が術前と同じで、術前に副作用が出ていたので半年飲むのに大丈夫だろうかとちょっと心配だったが、2022年12月初めの終了まで何の副作用もなく化学療法を終えることができた。食欲など全く衰えはなかった。

翌2022年6月4日、息子と妻とが迎えに来てくれて退院となった。中庭で大文字山をバックに妻と記念撮影をした。家族がナースステーションまで入ることは“正式”には許可されていないが、三人でお礼に言いに行き、病院を出た。検査入院や手術のための入院や長いことお世話になった病院も今後は数ヶ月ごとの診察だけになった。

Ⅴ.退院後の闘病生活とまとめ

自宅で療養生活に入ったが、特にこれといったことをするわけでなく、抗がん剤を服用する化学療法だけだった。エスワンの服用が途中変わったのでそのことをメモとして残す。

1)、6月17日からエスワン25mg錠を2錠、朝夕2回、これを[早川1] 2週間続けて1週間の休薬、1日100mgの投与である。

2)、上記のやり方で副作用がなかったので、8月20日からは、臨床試験で最も効果のあったやり方として、20mg錠を3錠、朝夕2回、これを4週間続けて2週間休むやり方に変更になった。残っているかもしれないがん細胞を徹底的にやっつける方法であった。1日の投与量は120mgの増量となった。

3)、ところがエスワンが増量となったためだろう、20日後に下痢と発熱の副作用がでた。食欲や吐き気は全くなかったのに。担当医からエスワンの投与を元に戻すと言われ、1日のエスワン量が再び100mgになり、2週間投与、1週間休薬のサイクルに戻った。

エスワンを120mg、4週間投与+2週間休薬のサイクルは、臨床試験で最も効果のあるやる方として認知されていたが、実際の治療では、エスワン100mg、2週間投与+1週間休薬のサイクルになる患者さんの方が多いと、治療方針を変更するとき、担当医から聞いた。

4)、9月17日から元の方法に戻り、12月4日、術後半年間の化学療法がついに終了した。
家に帰っておいしい食事をいただき、これと言った辛いこともなく、もうこれでただ真っ直ぐに治っていくと思っていた。膵がんのことはもう済んだのだと。ところがそうでもないのである。

自宅療養の間、京大病院には数ヶ月毎に血液検査とCTによる画像診断があった。血液検査の項目のなかに4つの腫瘍マーカーの検査結果が入っていて、これが上がることがあった。CTで見てもそれらしい蔭、つまり再発の兆候は見られないが、とても慎重派の担当医はCTで見えなくてもマーカーにでることがあるからより精密なMRIとPETの検査で診てみます、ただし、京大病院のMRIはスケージュールが詰まっているので地元の小浜病院で取ってもらってくださいと。こんなことが2回ほどあった。そのときの、小浜病院での画像診断の結果が出るまでの、緊張感はちょっと耐えがたかった。「もうなんともないだろう」とは思っていても、手術ギリギリ可能の、5年生存率20%の膵がん手術だったのだと思うと、やはり再発すれば・・・と心配は消えなかった。再発の兆候なしの結果に家族は跳び上がって喜ぶ。癌の患者を持つとはそんなものなのです。

これまでわたしは誰かに頼って生きてきたとは少しも思っていない。実際ひとりでなにごとも考えて対応し処理してきたつもりである。それは横柄で傲慢な態度でもある。それが「癌患者」となったあとは、これまでの「一人で何でも対応できる」ことができなくなった。ちょっとした言葉に喜んだり落ち込んだり、つまり、人のことばや態度に左右されることが多いのである。

患者は勝手なもので、心配しているとそのことを正確に理解して欲しいと願うと同時に、「そうですね心配ですね」と同じ気持ちになって欲しくはないのである。「心配ですね」と言われると、こちらの心配が増すのである。「心配でしょうが大丈夫ですよ」と対応して欲しいのである。それは理解ではなく単なる慰めではないと言われればそうですとしか言いようがないが、それでもいいのである。看護師にそれを求め、医師にそれを求め、家族にそれを求める。どうしようもないですね。

しかし、心から心配してくれているひとのことは、そうだと本当に分かるようになった。口先だけでの慰めかそうでないかがよくわかる。恥ずかしながら感謝の気持ちを、心からの感謝の気持ちを今になって初めて持てたと思った。これまでそういうのがなかったのにも気がついた。やっと並になったのである。

感謝したいのはまず妻や子供や孫たち。ひとりずつ言葉は違うがすべて励まされ支えられている。ありがたいと言うほかない。山の会の仲間にも感謝である。「早く山に帰ってきてください、待っています」と言われてどれほど嬉しかったか。入院中下の始末をしてもらっていた看護師さんから「出るのは良いことなのですよ」と言われ、天使かと思った。みんなみんな本当にありがたかった。

入院中、元気になって山に登れるようになったら病院の後に見える大文字山に登って快気報告をお世話になった看護師さんたちにするのだと決めていた登山が2022年12月14日に実行の運びとなった。福井山岳会の気心知れた長い付き合いの仲間が6名一緒に登ってくれた。南禅寺から登り大文字山山頂-火床―銀閣寺と周遊した。下りて六階の胆管膵・移植外科のナースステーションに報告に行った。お世話してもらった看護師さんに会えた。とても喜んでもらえた。一緒に写真を撮った。 

2023年の5月で術後1年が経過したことになる。再発は2年以内に生じることが多いと聞いた。このまま何もなく早く2年が経過して欲しい。今は、食べるものはすべておいしく、糖尿病も煩っているのでカロリー制限があり、我慢の食事の面があるが食慾旺盛である。感謝の日々を過ごしている。



Author

早川 博信

早川 博信

 

一念発起のホームページ開設です。なぜか、プロフィールにその詳細があります。カテゴリは様々ですが、楽しんでもらえればハッピーです。


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