山との長い付き合いは 


大学院時代の同級生が彼の知り合いに声をかけて作っている「文集」がある。不定期だがずっと続けているのは偉いと思っていたが、それも最終号になった。最後なのであなたも山のことについて書いて欲しいと頼まれて書いたのが以下である。

はじめに

昭和38年3月の半ば、大学合格の知らせをもらいのんびりしていた頃のことである。なぜか忘れたが近くの山に入った。登るという感じでなくなんとなく山に入った。周りは雑木だった。少し歩いて休む。これは良い、なんとも言えず気持ちが良い、何か他には代えがたい感覚だった。それが最初の山との出会いで、遠くにすばらしい山が見えるとか、あそこに登りたいとか、そんな劇的なことではなかった。

学生の頃

金沢大学はお城の中に学舎があり、石垣が学内のあちこちにあった。石垣の上からロープを垂らし、それを持って下ったり登ったりしている人を初めて見た。それが山岳部の活動だったのを同級生のW(Wは大学の山岳部に所属していた)から知った。

2年になって下宿を変わった。そこで岐阜県神岡出身の一年先輩のMさんと知り合いになった。隣の部屋だったのでよくおじゃましていろいろしゃべった。山の好きな人だった。Mさんの同級生も同じ下宿にいた。昭和39年の夏、三人で双六岳、三俣蓮華岳、鷲羽岳、雲の平らと行った。北アルプスの代表的な山域で私にとって最初の大きな山だった。その頃は鏡平には小屋もなにもなく、池に槍が見事に映っているだけだった。池の周辺でリーダーのMさんはちょっと道に迷った。雲の平はどこを歩いてもよく、木道などなかった。広々とした草原に、ここは天国かと思った。それからちょうど50年後の2014年、再び訪れた雲の平は全く違ったところに来たのかというほど景観が異なっていた。大きな木が生え、草原とは言えないところになっていた。

初めての冬山は同じ理学部化学科にいた前掲のWが連れて行ってくれた医王山(いおうぜん)だった。雪の上で寝るのもはじめで、行く前に道具をそろえるために店に行ったら、店の人に「この人、なんだかひ弱そうだが」と言われた。当時はそんなふうだったのだろう。雪の山の美しさを初めて知った。本当に嬉しく解放された気持ちだった。野鳥のウソを知ったのもこのときである。これが最初の野鳥になった。赤い色の目立つ可愛い鳥だった。

Wからは大学の山岳部に入らないかと誘われたが断っていた。母親が異常に心配し(幼い頃に四人の弟妹が亡くなった一人子の母子家庭だった)、その心配されるのが鬱陶しくそれくらいなら入らずにおこうと思っていたのである。

大学院では、水研(名古屋大学理学部付属水質科学研究施設)のみんなと、昔の写真を見せてもらって知ったのだが、立山・剱岳に行っている。覚えていないのである。初めての剣なのに覚えていない。どういうことなのかと思う。

就職して福井山岳会へ入る

就職して職場の近くのカメラ屋さんのIさんと親しくなりーそのとき初めての給料で大枚をはたいてペンタックスのSPを買ったー、その方が福井山岳会会員であったので福井山岳会に入ることにした。社会人になったのだから親の心配を判断基準に行動することもないだろうと思って入会することに決めた。それが昭和44年で、それ以来の山だからもう53年、学生の頃から数えれば60年近い山との付き合いになる。

山岳会に入って間もない頃、先輩のMさんに冬の山に連れて行ってもらった。福井市から近い冠岳だった。Mさんは山に入って頂上に続く尾根を見て、「今日はこちらから行こうか、条件が良さそうだから」と言われた。山はこうやって登るのかとその時初めて知った。

社会人の山岳会に入ったので、山登りの基本的なことはこの会から一から学んだ。冬山での雪洞訓練(最近は雪洞は流行らない、優秀なテントがそれに変わった)、ピッケルとザイル(ザイルも最近はロープに呼び名が変わった)を用いた滑落停止や確保、耐風姿勢などもした。簡単な岩場も行った。入った頃の昭和四十年代から五十年代は、かの有名な観光地、東尋坊は岩登りの訓練に使われていた。実力に応じて登る岩があった。観光客が恐る恐る覗いている海を下から登って突然彼らの前に顔を出し、びっくりさせて喜んでいた。

山岳会の合宿

当時の山岳会には正月、春、夏の三回の合宿があったが、正月は家にいたかったので、年末年始に山に入ることは一度もなかった。大晦日に山で「紅白」を聞いた、というような報告が会報にはあった。

正月合宿は行かなかったが春の合宿は連休の一週間ほど山にいた。入会して直ぐの二,三年、岳沢が定番の合宿場所だった。その頃はみんな雪洞を掘って滞在していたので、我々も着くと直ぐ雪洞を作った。すでに合宿を終えて帰った人たちが残した雪洞はトイレとして利用した。岳沢から明神岳、奥穂高岳、前穂高岳など往復した。雪のついたジャンダルムを飛騨側から通過したときは本当に怖かった。天狗のコルからグリセードで下りてくるなど、今から思えばよくあんなことをしたと思う。乗鞍岳が自家用車乗り入れ禁止になる前年の2002年、妻と一緒に乗鞍に行き、そのあと西穂高山荘から独標の近くまで行った。岳沢がよく見えた。重太郎新道はまっすぐに立ち上がっているように見えた。見ただけで怖かった。春の雪がガチガチの頃、あそこを登ったのが信じられなかった。2002年ではもう60歳近くなのだから、そのような感じを持っても当然と言えば当然なのか。

結婚後も

昭和49年の一月に結婚し、子どもができても山に行くのは止めなかった。仕事で帰宅するのは夜だし、土曜日・日曜日と家にいないので、近所の人から「母子家庭ですか」と聞かれたと妻から言われた。小さい子どもがいるのに、その子たちと遊べば良いのに、山に行くのはどこか精神が歪んでいたのでないかといまでは思う。

会に入って間もない頃の春山合宿で(白山だった)、装備が悪く,かつ判断力もなく,もう少しで凍死するところであった。その時のリーダーのおかげで命を拾ったと思っている。詳細は、拙著『旅行鞄はいつもリュックサック』の「一線を超えると」に書いたので見てください。

昭和50年代の福井山岳会では記念碑的企画事業が二つあった。

ひとつは冬の荒島岳の沢と尾根を全て踏破するというのと、もう一つはその数年後、福井県の県境尾根を西から東まで全て歩こうというものである。前者はニ回の冬でほぼ達成できた。後者は二年と四ヶ月かけて全て歩き通した。西は京都府から始まり、滋賀県,岐阜県,石川県と続いている県境尾根だったが,ほとんどが道はなく藪を漕いで歩き通した。多くの会員が情熱をかけて、かつ楽しみながら道なき道を、GPSのない時代、地図と磁石で(けっこう木登りして位置を確かめたけれど)、やりとげた。この二つの事業は本となって残った。『荒島の冬』と『県境をゆく』はいまでも古本サイトで入手可能である。

前掲のMさんと冬の荒島岳のながい尾根に入り、頂上に達したのがもう夕暮れに近い時間だった。通常の夏道を辿って(雪はいっぱいあった)下に降りた時は暗かった。妻は二部屋だけの小さな県営住宅でずいぶん心配したらしいが幼い子供二人が「お父さんはかえってくるから」と励ましていたと,帰宅してから聞いた。

ずっと山を続けた

岩や雪や気を抜くと生命に関わるような危ないところは三十代でもう行かなくなり(ビビリなのです)、そうかと言って、安全100%の決まり切ったガイドブックに出ているような登山道だけを歩いていたのかというとそうでもなく、一年を通じて四季折々の山に月に平均して三度ほど、藪をこいだりラッセルしたり、あるいは有名な大きな、福井からは遠くの山に会のみんなといって、ああ山に来て良かったというような登り方をしていた。

九州、四国、山陰、紀伊半島、南・中央・北アルプス、東北、北海道、大概は車で行って(さすが北海道は飛行機だったが)数日、テントであったり山小屋であったり。年の割には一日でずいぶん長距離を歩いたのでないかと思う。50代には月に100キロ走ることを決めて、それが6,7年続けられた。その間ハーフマラソンに二回出た。よく山に行ったこと、頑張って走ったこと、それらはいま身体的な財産として残っている。

海外の山に

海外の山も、頂を踏んだのでないので登山行動とはちょっと言いがたいが、何カ国かは行った。2000年の9月、エクワドルに金沢の同級生のWを訪ねて―彼はその頃いろんなことを経てエクワドルの首都キトに生活の拠点を移していたー、コトパクシ山(5897m)とティンボラソ山(6300m)の高所の小屋まで連れて行ってもらった。5200mまで行って高度障害が出なかったので自分は高所に強いのでないかと思った。2011年9月、イタリア北部のドロミテ山域にあるドライ・チンネン(イタリア語で、トレチメ・ディ・ラヴァレード)の岩峰群の周りを巡り、近くの氷河も見に行った。

2017年には、山をやっている以上エベレストのせめて近くまではと思っていた、念願のエベレストBCトレッキングに福井山岳会の仲間二人と行った。73歳だった。ルクラから往復二週間かけて歩いた。日本はもちろんヨーロッパアルプスとは規模の違う、純白の鋭角の山群を毎日目にして本当に幸せと喜びとを感じた。高度障害は全くでなかった。5356mのBCまで、山頂を踏むことはなかったが、このコースを歩き通すにはこれまでの山の経験がなければ無理だっただろうと思う。このときの詳細は私のブログ「無住庵通信」に書いたので見ていただけると嬉しいです。(http://hayakawa-tobe.net/?p=1236

これまでのことを思い出すと

山に行くようになってから長い時間が経った。よく死ななかったと思う。危ないときは何度かあった。このあと何年山に行けるのか分からないが、もう山で死ぬことはないと思う。昔一緒に行った人たちのことを思い出すと、あのときはこうだった、あれは厳しかったといろいろ思い出す。その時の山と行った人とはセットになっている。

なぜいつまでも山から離れず、行き続けたのか。山は四季を通じてその美しさを見せてくれる。真っ白な雪の山から、新緑の春、抜けるような空と流れる雲の夏、色のすべてのスペクトルがあるのかと思うほどの秋の紅葉まで、それらの美しさに感動する心は何度行っても減じることはない。ああ、来て良かったといつも思う。しかし、その美しい風景の中にどこからか容易な方法で連れてこられても感動することは少ないだろう。苦労して身体を動かし疲れ、五感を研ぎ澄ませながらそこに達して初めて起こる感動である。

山は健康でないと行けない。山に登る当人はもちろん家族も健康でないと山など行っておられない。その点これまで山を続けられたのは家族のおかげだと、最近特に、しみじみと思う。今ごろ感謝されてもね、と言われそうだが、そのことは間違いない。ありがとう。

 

(下の写真はエベレストBCで。真ん中はラチャーラチャー、右はサブガイドのカンチャー)

エベレストBCにて



Author

早川 博信

早川 博信

 

一念発起のホームページ開設です。なぜか、プロフィールにその詳細があります。カテゴリは様々ですが、楽しんでもらえればハッピーです。


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