2017年秋、エベレストBCトレッキング -GPSによる歩行の高度差データあり-


image41.出発前に

山屋という言い方がいまでも通用するのかどうか知らないが、そこには山に登ることを最優先にして生活しているものの自負がある。自慢でもあるし、いくぶん尊大な響きもある。そんな山屋のつもりでやってきて、是非ともいつかはと思っていたのがエベレストBCに行くことであった。ヒマラヤの山に登ることは全くできなかったが、せめてその近くのBCまで、ということである。

山岳会の仲間に声をかけたらいっしょに行こうと賛同してくれる人があり、一人は男性60歳半ばKさん、もう一人は女性60歳初めYさん、いずれも長く一緒に山に行っていて気心の知れた人たちである。期日を10月下旬から11月にかけてと決め3ヶ月ほど前から準備にかかった。準備と言ってもまず行った人の記録を見ること。エベレストBCまでのトレッキングはネットにいっぱい出ているのでそれらが参考になった。山岳会の例会が毎月第二木曜日に開かれているので、会の開始30分前に集まっていろいろ話合った。二人とも個人で海外に行くのは初めてなので,格安の往復チケットを買うことやネパールのビザをとることから始めた。

ほかの人の記録を見てどうやら15,6日はかかりそうなこと、カトマンズからルクラに飛ぶ飛行機は悪天候で数日飛ばないことがあることなどから、旅行には余裕を持って行かないと帰りの飛行機に乗れないこともあり得るので、少し贅沢だがカトマンズで前後2日ほどは予備日を持つこと、ルクラでも2日ほど飛ばなくても帰られるような日程にした。

われわれ3人、10数キロの荷物を担いで2週間以上、高所の4000m、5000mのところを歩くのはとてもできそうにないので、「もう年なので楽に行きましょう」とガイド、ポーターを雇うことにした。現地のガイドは友人に紹介してもらったカトマンズの旅行会社に決めて,そこと出発までメールでやり取りして日程の詳細を決めた。とてもお世話になりありがたかったので、ここに会社名を記します。Mountain Experience  URL: http://www.mountainexperience.com.np

2.日程の概要
こちらから提案した案を元に出発前に会社が決めてくれた詳細なコース・宿泊地は、元の案とほとんど違わなかったが、現地で身体の調子などから少し変更になった。ガイドのラチャーが言っていたように「皆さんは少人数で来たから宿泊場所の変更は可能だ、これが10数人となるとそうはいかない。フィックスだ。そうなると無理をしていけるところも行けなくなる」。というわけで以下の日程は実際われわれが現地で経験したそれである。3人で行って本当によかった。

10月22日(初日) カトマンズ6時(飛行機)-ルクラ6時半-モンジョ13時
10月23日(2日日) モンジョ8時-ナムチェ11時15分。
10月24日(3日日) 高度順化のため、ナムチェ滞在。エベレストビューホテルへ。クムジュンを回ってナムチェに帰る。
10月25日(4日日) ナムチェ7時45分-ポルチェ14時45分
10月26日(5日日) ポルチェ7時50分-ソマーレ1時
10月27日(6日日) ソマーレ7時50分-ディンボチェ10時
10月28日(7日日) ディンボチェ滞在。8時発,300m程の登り。お昼前にロッジに帰る。
10月29日(8日日) ディンボチェ7時30分-ロブチェ2時
10月30日(9日日) ロブチェ7時-ゴラクシェプ9時半-エベレストBC12時-ゴラクシェプ2時半
10月31日(10日日) ゴラクシェプ6時、カラタパール途中まで。ゴラクシェプ8時-ペリチェ3時
11月1日(11日日) ペリチェ8時-テンボチェ1時
11月2日(12日日) テンボチェ8時-ナムチェ12時半
11月3日(13日日) ナムチェ7時45分-パクディン12時半。
11月4日(14日日) パクディン7時-ルクラ10時。飛行機が取れて2時過ぎ離陸。カトマンズに帰る。

4.トレックキング詳細
10月20日;中部国際空港で簡単な障害保険に入る。死亡保険は海外にでるときいつもしているように外した。中部国際空港0時50分発のバンコク経由カトマンズ行きで出国。バンコクで5時間余の待ち合わせがあり少々くたびれた。カトマンズ12時半着。ビザは予めとってあったのでスムーズに入国できたが、荷物がなかなか出てこず外に出るまで1時間以上かかった。

空港にはメールでやり取りして頼んであったカトマンズのトレッキング会社のタムディンさんが車で 迎えに来てくれていた。三人ほどの運び人といっしょだったので、同じ会社のひとたちかと思ったが、たんなる赤帽で、車までのほんの少しの運びに、「チップ、チップ、センエン」というので、ルピーが全くなく言われたままに円札を千円もだした。バカだった。しばらく外に出ていなくて、感が鈍っていた。

カトマンズは相変わらず埃だらけで騒動しく猥雑で元気がある。Yさんは若い人が多いね、という。車窓を見ながら楽しそうである。ホテルに着き、タムディンさんからトレッキングの概要説明、いわゆるいい人のようでよかった。翌日荷物を入れるバッグを持ってくるからと、この日の説明が終わり分かれた。

翌日、10月21日(土)、ホテルの外で換金したり、近くにあった超有名な観光地ボダナート・ストゥーパに行ったりして過ごした。タムディンさんが持ってきてくれたバックに寝袋や着替えや飲み物やいろいろ入れたらずいぶん重たくなった。10数キロぐらいはあったろう。出発の準備は完了した。
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(ホテルの近くで、この先に両替屋があった)

注記;以下のGPSのデータはKさんがせっせと、それこそ丹念に注意深くとったデータでとても貴重なものです。Kさん、ありがとう。これを見ると、実に登ったり下ったりしたものだと、改めて感慨にふけっている。また、写真は3人が撮ったものを使いました。

初日(10月22日)  カトマンズ6時(飛行機)-ルクラ6時半着-モンジョ13時
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いよいよ今日からトレッキングが始まる。昨夜はホテルの外でお祭りがあったようで午前0時を過ぎても音楽が鳴ってとてもうるさかったが、どうやらいつの間にか寝入ったらしい。朝4時過ぎKさんに起こされた。タムディンさんが4時半に来ると言っていたのでホテルのフロントで待つ。朝が早いので朝食の時間がなくホテルからランチボックスをもらった。4時半を15分ほど回ってタムディンさんがやってきた。昨夜のうちにパッキングしておいた大きな荷物を車の後ろのトランクに入れる。トレッキングに必要でない荷物はタムディンさんの事務所で預かってもらうことになった。
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(2日間滞在したホテル)

ホテルから空港まで意外と早く着いた。国内線の乗り場は大勢のトレッカーで大混雑である。今回お世話になるガイドさんがなかなか来ないので焦った。タムディンさんから3人分のチケットをもらい中に入る。「ルクラに行く人は早くチェックインしてください」と言われ、大きなバッグを持ってチェックインカウンターに並んだ。その時ガイドさんがやってきた。名前はラチャー。よろしくと挨拶。小柄の人だった。

ルクラに行く飛行機は両側に8人ほどの席があり、操縦席のドアーが開いたままなので、丸見えである。小さな飛行機でこれで十分エンジンに力があるのか心配だったが、精一杯スロットを回し、全力で空中に浮いた。ともかく飛んだ。ガイドのラッチャーが「アンナプルナ、アンナプルナ!」と叫んだので外を見たがよく分からなかった。
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ルクラに着いた。飛行場は網の外から見るとまるでスキーのジャンプ場のようだった。ここで始めてサブガイドのカンチャーとポーターのラワを紹介される。彼らに荷物を預ける。われわれはほとんど空身で楽ちんだが、こうでないともう長く歩けないだろう。歳なのである。
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(元気にルクラを出発)

ルクラから歩き始める。最初のチェックポイントが町の中にすぐあった。トレッキング中の諸手続きはすべて料金に入っているので、どれくらい払うのかそれも分からない。歩き始めてすぐ、前方左に真っ白な山が見えた。これだけで、来てよかった! と声が出そうになった。

今日の予定日であるモンジョまでは全体的に下り勾配である。大勢のトレッカー、追い越されたり追い越したり、日本人の団体にもあった。年配者の団体である。ゆるい上り下りを繰り返す。大きな橋を数回渡った。

Thado Koshigon着、9時20分。ホテルでもらったランチボックスを開けて、遅い朝食をとる。中に果物3種類それにケーキ類が入っていた。ジュースを残し全部食べ、食べ過ぎてしばらく歩くのが辛かった。本日の宿泊地であるモンジョが見えた時は嬉しかった。モンジョ着13時、昼食をとる。日本のうどんのような麺が入った野菜スープを食べた。下着に綿シャツを着ていたので汗でべとべとになり脱いだ。乾いた下着で体が温かくなる。三人でビールで乾杯。ここが最後のビールだった。
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(橋を渡ったところがモンジョ)
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(ここが最後のビールとなった)

本日ガイドのラチャーから聞いた話
先月9月アメリカの75歳の人をエベレストBCまで連れて行った。その人は3回目にしてBCまで行けたので本当に嬉しそうだった。それまで2回はガイドがここから下りろと言って下ろされた。危険だからと。俺はその人を必ず連れて行くと約束して連れて行った。3週間かかったがゆっくり行けば、そしてしっかりしたガイドが居ればBCまではいけるよ。

夕飯はチキンカレーと野菜スープ、とてもおいしかった。ラチャーが言うには、野菜は地元産だからとても体にいい。ご飯のおかわりもスープもいくらでもOKだった。

歩いている時に気が付いたこと。大きな岩、マニ石にチベット仏教の経文が書かれているが、そこを通る時は岩を右側にして取らなければいけない。ラチャーは律儀に必ずそうしている。
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手首に巻いて測る血圧計を持ってきたので、朝晩の血圧測定がひとつの仕事である。8時前に寝袋に入る。寝袋の上から掛け布団を掛けているのでとても温かい。
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2日目(10月23日)  モンジョ8時-ナムチェ11時。
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今日はモンジョからナムチェまで歩く。まずポリスオフイスで通過のチェック。このあと門をくぐってどんどん下り、下の谷川のレベルまで下りた。谷に並行した河原の中を歩く。途中トレッキングを終えた日本人ツアー客と出会った。エベレストBCまでは行かなかったようだ。

モンジョの門を出る
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(左がサブガイドのカンチャー、中がガイドのラチャー)

深い谷にかかる長い高い橋を何個も渡った。荷物を背負ったゾッキョも橋を渡るのだからすごい。このときは渡り終わるまで待っていた。中には、ときどきだが、橋のなかですれ違う人もいた。現地の人、トレッカーはじっと待っている。
橋を渡るゾッキョ
最後に上と下で二重になった橋の上の橋を渡った(下は古い橋で現在使われていな)。この橋が最後だった。

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この橋を渡るために河原から200メートルほど上ったがこの上りがきつかった。登り終えてその後はダラダラとした大きなS字状の道だった。途中、最初のエベレストビューポイントがあったが残念ながらエベレストは雲の向こうで見えなかった(帰り、同じ地点でエベレストを見た)

 
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ナムチェに11時過ぎ到着。ナムチェの街は階段状に上に伸びているので、ここについてから自分たちの泊まるホテルまで登るのが大変だった。昼食にミックスピザとニンニクスープを注文する。おいしい。泊まるところはサクラゲストハウス、Wi-Fiも使える。とてもきれいなホテルである。山に来てこんな贅沢なところに泊まるのか、と言いたくなるほど素敵な宿である。ここには高度順化のため2日滞在する。ホテルの部屋は綺麗でトイレも室内にある。
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3日目(1024) ナムチェ滞在(高度順化のため)

今日は高度順化のためナムチェに滞在。二日ナムチェで過ごす。朝ホテルの窓からほんのしばらくだったが大きな山がすぐそこに見えて、思わず同室のKさんに「山が見える」と叫んだ。神々しい。歩く気がしてくる。励まされる。 

サブガイドのカンチャーとポーターのラワは今日はお休みである。ガイドのラチャアーとわれわれ3人でホテルを出る。ホテルから150mほど一気に上った。1時間足らずだった。そのあとはゆるやかな上りで、平坦なところはなかった。厳しかった。1時間ほどで登りきった後は平坦な道が続きエベレストビューホテルまでゆっくりと行くことができた。アマダブラム(6856m)がこれがヒマラヤの山ですよというように優美な姿を見せている。
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 (右の大きな山がアマ・ダブラム、左側中がローチェ)

エベレストビューホテルはお客がいっぱいで、眺めの良いベランダは世界各地から来た人で溢れていた。ここからは天気が良ければエベレストが見えるけれど今日はあいにく曇り空でエベレストのピークは雲の中であった。ベランダで510ルピーのホットチョコレートを注文する。10%の消費税と13%のサービス税がついて650ルピーになった。高いココアであった。 

ビューホテルから木々の中の道を下ってくクムジュン(3,780m)に向かう。屋根の色が緑色に統一された集落がクムジュンである。ここにはヒラリースクールがあるとガイドから聞く。どんどん降りて開けたクムジュンの集落に着く。ヒラリースクールはあいにく休みだった。校庭の入り口にヒラリーの胸像があった。亡くなってまだ10年ちょっとであることを知ってびっくりした。エドモンド・ヒラリー(1919720日~ 2008111日)。収穫のすんだジャガイモ畑がいくつもあり、それらは石垣で囲まれていた。ヤクの牧草地もある。まるで天国のような穏やかな集落である。
10月24日クムジュン
クムジュン、インスタントラーメン
昼食は村の中の食堂でネパールのインスタントラーメン、野菜入りでおいしかった。

この集落で最強のクライミングシルバーの方に会った。プルバタシーさん。まだ若い。ガイドのラチャーの友人だという。エベレストの頂上には21回行ったと聞いてびっくりした。富士山にも登ったよと言っておられた。3人はそれぞれその人と写真を撮った。

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ナムチェの帰りは来た道をとらずぐるりと回って別の道を行き、途中で登ったときの道と合流した。ナムチェからこの道の上までは300mほどあるのに、毎日下のナムチェの学校まで通っている子に会った。家への帰り道だった。胸にIDカードをぶら下げていた。まだ小学校の1年生か2年生の子供、毎日この急坂を登って降りて家から通っているようだ。 

滞在しているホテルに2時過ぎに着いた。持ってきた一眼レフカメラの電池の消耗が激しく、4本セットの単三電池を二組買った。それでも心配でKさんからさらに4本もらった。電池の消耗がとても気になる。気圧のせいなのか。気温か。

 ガイドのラチャーから聞いた話。
3歳の時に父をなくした。酒が好きでそのせいでないかと思っている。母は9歳のときに亡くした。とても貧乏だったので8歳から仕事に出て自分で食べるようにしている。これまで学校と言うものには1度も行ったことがない。英語は全て耳から覚えた。25歳からガイドを始めて今年でもう25年になる。ガイドの仕事はそれほどいいものではない。1年に4ヶ月くらい。仕事のないときはレストランで調理の手伝いをしている。野菜を切ったり食器をかたづけたり。もともとベースキャンプでコックの手伝いをしていたので慣れている。

4日目(1025) ナムチェ8時-ポルチェ15
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ナムチェの初めての夜は少し寝苦しく、なんとなく呼吸する時酸素不足のような気がしたが昨晩は普通だった。

今日はポルチェまで歩く。出発750分、歩いて45分ほど経って最初のストゥーパ、仏塔に着く。ここまではゆるやかな登りだった。ローチェは見えるがその左に見えるはずのエベレストは雲の中。昨日歩いたクムジュンへの分岐点に9時に着く。ここまで2時間足らずで来た。
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 大きな山の斜面についた細いトラバースの道をゆるやかにのぼり、11時過ぎに昼食地点に着く。ここに着くまでの途中の細いトラバースの道で荷物を上げるゾキョに出会う。向こうのほうが早いので追い越された。
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(上に見えるのが峠、そこで昼食を摂った)

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昼食は焼きそば(チョーメン)
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1時間半ほど昼食休憩をとり、昼食をとった場所からどんどん下がり谷底まで降りた。急な下り道だった。谷川にかかった橋を渡り、写真撮影や休息で1時間半、橋から登り始める。今度は宿泊地であるポルチェまで上り坂一方だった。ポルチェ到着1445分。 

朝から昼食・休憩時間も含めて7時間の行動であった。ガイドのラッチャーによれば今日のルートではずっとエベレストが見えるはずだが今年は天気が悪く見えない、まあ仕方がない。 

ポルチェのホテルは満員で部屋は全部ふさがっていて、外にたくさんテントが張ってあるがそこも満員で、20, 30人ほどが外のテントの中であった。お茶の時に食堂は人で溢れていた。部屋は食堂から階段を下りて少し暗い廊下を行ったところにあった。地下でなく部屋の階が一階になっている。Yさんの疲れがひどく、明日は最初の予定よりも手前のソマーレで泊まることになった。

5日目(1026) ポルチェ8時-ソマーレ12時半
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昨晩のこと、心臓がこのまま止まるのでないかと思った。うつらうつらしていると急に息苦しくなり深く吸い込んでもうまく呼吸できず、目が覚める。その繰り返し、どうしたらいいのかよくわからず、ベッドに起き上がり座ったりしていた。左脇と左腕の間をこぶしで強く抑えたら急に楽になり、心も安定した。その間、本当に、ここのまま死ぬのか、いやいや、死ぬのならこんな楽に死ねるはずはない、などと思った。いろいろ考えていたが、朝起きてKさんが言うには、「すぐ寝付いたよ」ということだった。朝目が覚めてからは昨夜の事は特に何も体に関係なかった。
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 750分、歩き始める。ホテル(friendship)からゆっくり上る。歩く道は昨日と同様大きな山の斜面のトラバースルートである。

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2時間ほどで初めてエベレストの頂上が姿を現した。ヌプチェの大きな山稜の向こうに少しだけ頭を出している。今日の眺めでやっとエベレストのトレッキングに来たと言う思いになった。 
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(横に延びてる尾根の奥にエベレスト)
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奥がソマーレ(26日)
(中央奥の青い屋根群がソマーレ)

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(ソマーレがよく見えるようになった)

昨日はYさんの疲れがひどかったので、最初の予定を変更して4時間ほど歩いたところにあるソマーレで泊まることになった。Yさんはソマーレへの最後の登りで非常に疲れザックを担いでもらった。ソマーレには12時半に着いて、今日はそれで終了。宿泊地のホテルから下を見ると大きく広く広がった山が立ち上がっている。 

6日目(1027) ソマーレ740分-ディンボチェ1010
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朝血圧を測ると180以上になっているので、ちょっと心配で、今日から薬を2錠飲むことにする。昨夜は全く問題なく寝られた。息苦しいことも全くなかった。朝、顔を洗ったり歯を磨いたりするためにためてあるタンクの蛇口にツララが下がっていた。 

ホテルを出て集落の後から軽い上りが始まりやがて平坦になり、幅の広い谷の真ん中を進む。両側の山の長い影の中を歩いているのでとても寒い。毛の手袋を出してはめる。
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一旦谷に降りて再び200メートルほど上る。
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27日(No.2)

27日(No.3)

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今夜泊まるところのディンボチェを望む峠に出た。ローチェがすぐそこに迫っている。
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緩やかな下りをゆっくり下りてディンボチェに10時過ぎに着いた。今日の行動はこれで終了。2時間半くらいだった。 

ディンボチェには高度順化のためもう1泊する予定である。ディンボチェはちょっとした街でいろんな店がある。登山用品やお土産屋日用品など何でも売っている。Hは単3の電池を4本買った。Yさんはストックを買った。昨日あたりからストックの必要性を感じていたらしい。

最初パラポラアンテナかなと思っていたのは太陽熱湯沸かし器であった。中央に薬缶が置かれていて沸騰まで行くようだ。ロッジのあるところではどこででもこれを見た。
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ディンボチェの通りで出会った外国人夫婦に話しかけたら、カナダから来たという。結婚30年でその記念にやってきたらしい。ホテルに帰りまたいろいろ話を聞く。聞いてみるとこのエベレスト街道のトレッキングはもう4回目になるということだった。ガイドもつけずポーターもなしで2人で歩いている。大した気力と体力だと感心してしまう。高齢化の話、若い人が結婚しない話、すぐ離婚する話、どこも同じ。「文化的背景が違うのになぜでしょうね?」とH。「われわれは珍しい夫婦だ、なぜって、30年もいっしょにいるのだから」と、大きな声で笑っていた。 

ディンボチェではWi-Fiが通じる。600ルピーで制限なく使える。家にメールしたら返信があった。のんびりできるところである。料理もおいしい。ホテルも新しくてとてもきれい。宿を経営している夫婦は若く、奥さんは首に紐をかけてその先にぶら下げたかごを背に負い、その中に入れた赤ん坊をあやしている。
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7日目(1028) ディンボチェ滞在
今日は高度順化のためディンボチェに滞在、軽い登り降りをした。750分ホテルを出る。街の裏の山に登る感じである。ゆっくり登る。15分ほどで最初の休憩地、下にディンボチェの街が広がっている。

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 小さな丘の上には仏塔。そこで東洋人の女の人に会ったので、チャイニーズ?と聞くとTaiwan!という返事だった。21人の団体でエベレストBCまで向かうと言う。ガイドは7人でポーターはヤック。休憩している丘から見ると左下奥のほうに向かって緩やかな道が上っている。そこを行くとその先にエべレストBCがある。われわれは明日あの道を行く。 
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その道とは逆に右のほうの丘状のところをだらだらと登るが、あまりにもくたびれて、これはどうも飯バテだと気づきYさんから羊羹をもらって食べる。二つも食べたか。それ以降は何とか歩けた。朝食にアップルパンケーキを選んだのが間違いだった、みんなもそう言うし、自分でもそうだと思った。 「いつもいっぱい食べるのに。あれでは足りないでしょう」、言われても仕方ない。

登るにつれてマカルーが△状に見えてくる。残念なことに雲がかかっていて全容を見ることができない。ガイドのラチャーがずっと奥のほうに見える真っ白な三角の山はアイランドピークだと教えてくれる。
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Yさんの疲れが大きいので明日のことを考えて、エネルギーを貯めておくために、10時半ごろまで歩いて下りることになった。1時間ほどでホテルに帰り着いた。昼食はミックス焼きそば、チョーメンである。 

ガイドのラチャーから聞いた話。
Sleeping in daytime is アタマガンガン。明るいうちに寝ると頭が痛くなるので昼間は寝てはいけない、という意味である。午前中に行動が終わったとき、午後暇で、それでも寝てはいけないと言うのは辛い。Yさんがうつらうつらするとそれを起こすのがHの仕事であった。4時、この時間になるといつもあるティータイム、クッキー付きのお茶を飲んでいると、外に粉雪が舞い始めた。雪かと心配したがラチャーは一向に気にしていない。外を見ると洗濯物も出しっぱなしである。「明日になれば太陽の光で溶けるから」とラチャーの説明である。 

Yさんがかなり疲れているので明日の目的地であるロブチェまで行けそうにないと判断されたら、サブガイドのカンチャーが一緒に降り、われわれはガイドのラチャーとポーターのラワとで上にいく、そういう話になった。いよいよ明日明後日がこのトレッキングのクライマックスである。楽しみでちょっと興奮、がんばる気が起こっている。

8(1029) ディンボチェ7時半-ロブチェ13
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昨夜降った雪がまだうっすらと残っていて周りの景色がすっかり変わってしまった。その美しいこと。山は荘厳というか気高いというか、本当に限りなく美しい。昨日歩いたと同じ道を通って峠まで行く。
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(前日、高度順化のために来た峠)

 今日はここから左側に降りて山の斜面の左側面を歩く。すぐ横の山が迫ってくる。その巨大な力に圧倒される。ヤクがうっすらと雪の着いた岩肌状の道を荷物を担いで登っていく。青空の中、鋭くとがった山が聳えている。(帰国後写真を見た友人は「スターウオーズの世界みたい」だと評したが、確かにどこか別の世界にいる感じがしていた)
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Yさんは疲れが残ったままのようで足取りが重い。軽い上りを繰り返し、斜面のトラバースが下りになり谷底のロッジ、デュクラ(4620m) 10時過ぎに着いた。 

ほんのしばらく休んでいたらポーターのラワが突然痙攣を起こし両足をばたつかせ上に向け頭を下にしてひっくり返った。頭部を敷き詰めてあった石で打った。痙攣はしばらく続いた。このロッジで休んでいた外国のトレッカーたちはびっくりして恐怖の面持ちであったがロッジの人やラッチャーはそうでもなく、そのままにしておけと言うように特に何もせず頭の下に毛布を差し入れたり、身体にヤッケをかけて暖かくしたり、静かに見守っていた。 

あとでラッチャーに聞いたところ、3年前まではよくこういう発作が起こったが、ここのところなかったと。ラワは15分ほどして正常に戻った。その後も30kg近い荷物を担いで上まで行ったのだから、本当に凄いというか、びっくりした。 

デュクラから250メートルほど上り、トクラ峠に着く。Yさんのスピードが極端に遅く、この峠までつけるのか心配だったが11時40分、みんな到着できた。ここは開けたところで平らな部分が多くそこにこれまでエベレストで遭難した世界各国の人々の遭難碑がたくさん並んでいた。写真付きのがいくつもある。遭難碑は大きくて立派なもの、そのなかに幼い子どもの写真が填め込まれたのがあった。4歳の男の子、親がこのあたりまで連れてきてなくなったのだろうか。詳細なことは書かれていなかった。  

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この峠からロブチェまでの景色の素晴らしかったこと。Yさんがこれらを見られて本当によかった。宿泊地のロブチェまであまりに素晴らしく写真を撮りまくった。ロブチェ(4910m)2時前に着く。

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遅い昼食を済ませ今後の行程について話し合った。

 (1) Yさんが明日の朝これ以上顔が腫れていたらサブガイドのカンチャと一緒に下に降りる。同じ位の状態ならロブチェにとどまってあたりを散策する。

(2) HKは明日の朝6時朝食7時出発、エベレストBCまで行ってゴラクシェプ(5140m)に泊まる。次の日、HKはラチャーといっしょにカラタパールの途中まで行って、その日のうちに下がれるところまで下がる。ペリチェまでの予定。5000mを超すゴラクシェプには二泊しないで必ず降りること。

Yさんは少し残念そうだったが承諾した。今夜は寒い。 

ロブチェの夜;
一部屋ベッドが二つあり、今夜はKさんとラッチャーが同じ部屋、HとYさんが同じ部屋になった。これはラッチャーの指示でそうなった。「おまえはYさんに何かあったらすぐ俺に伝えること」とラッチャーが言って部屋割りを決めた。幸いにYさんには何事も悪いことは起こらず朝を迎えた。

9日目(1030)ロブチェ650分-ゴラクシェプ-エベレストBC-ゴラクシェプ14
1030ロブチェーゴラクシェプ.グラフ

朝、昨夜納得したはずだったYさんが5時間かけてもいいからゴラクシェプまで行きたいと言う。ラチャーは顔を見てダメだぞ、ここにいなければいけない。Hもいろいろ言って(家族の事とか、自分1人の身体でないとか)、説得に努める。結局、Wi-Fiをつなぐことで何とか承諾してもらう。Yさんはポーターのラワとロブチェにいることになった。 

7時過ぎに4人で小屋を出る。クーン部氷河の中を歩く。氷河と言っても氷があるわけでなく、ゴロゴロとした石の原である。ときどき現れる強大な岩のそばを通る。まわりの山がいちだんと近くに迫っている。最後は谷に降りて登り返し再び下って5,140メートルのゴラクシェプに9時半過ぎに着いた。3時間かからなかった。 
30日(1)

30日(2)

30日(3)

30日(4)

30日(5)

30日(6)

30日(9)


 

少し休んで10時過ぎからエベレストBCに向かう。氷河の上の道、氷河は広く両側にモレーン。その中を軽いアップダウンが繰り返し出てきて、奥に行くに従いエベレストの頂上が頂きを見せるようになった。周りの山が圧倒的な力でせまってくる。最後は氷河を降り再び登り返しエベレストBCに着いた。 
30日(10)

30日(11)

30日(12)

(後ろはプモリ(7161m) )
30日(13)

30日(14)
(望遠で引っ張ったエベレスト)
30日(15)

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(エベレストBC、終点である)

30日(18)

30日(19)

30日(20)

 

小屋から3時間かからなかった。長いこと思っていた念願のエベレストBCである。ここかと思った。感傷にふけるほどの感慨はなかったが、来たのだと、達成感は大きかった。いまは冬を迎える季節なのでBCにはテントがない。ラチャーによると春に来れば数限りないテントが張られているという。どこか外国のグループが、このBCで結婚指輪の交換セレモニーをしていて2人を囲んで大歓声をあげていた。 

エベレストBCに着いたのでこれで今回のトレッキングの目的はほぼ果たせた。帰り道、ゆっくり小屋までもどる。2時半過ぎにたどり着いた。着いてから血圧を測ったら高い方が193もあった。ただし、自覚症状は何もない。昨日の小屋よりもさらに寒い。食堂のストーブはプロパンガスのボンベが直接はめ込まれている。Kさんが興味深そうに見て盛んに写真を撮っていた。小屋は大勢のトレッカー。あふれるほどの人である。

10日目(1031) ゴラクシェプ6時-カラタパール途中-ゴラクシェプ-ペリチェ31031ゴラクシェプ.ーペルシェ1前半グラフ

6時、カラタパールに登るためKさんと朝食を摂らずにホテルを出た。ラッチャーはお腹の調子が悪いと言って小屋にいるということなので、我々2人にはカンチャーがついてきてくれた。6時はもう明るいがとても寒い。毛の手袋の上からオーバーミトンをするが、それでもとても冷たい。体も寒い。小屋を出てしばらく平地、すぐにかなりの急勾配となり、カラタパールの丘に取り付く。  

非常にゆっくりとしか歩いていない(歩けない)がとても辛い。指の先の感覚がない。頭もおかしい。15分ほど上ったがこれでは何かが起こりそうでどうしても無理だと判断し、カンチャーにいっしょに下りてもらえないかと頼む。Kさんにも一人で行って欲しいと頼む。すぐに下山、小屋までそれほどかからなかったが、中に入っても体と心がバラバラみたいで、頭もぼーっとしていてとても変な気分が抜けない。熱いミルクティーを飲んでも変な状態は元に戻らない。カンチャーに頼んで部屋に置いてきたウエストポーチを持ってきてもらい、血圧の薬2錠を出してホットウォーターで飲む。 

ホットウォーターを飲んでしばらくして指先の凍ったような状態が元に戻ったのに気付く。身体に心が戻ってきたのを感じた。かなり危ない状態だったのでないか、血圧が異常だったのかもしれない。それとも極端に冷えたからか。ともかく普通になってよかった。 

Kさんが1時間ほどして帰ってきた。非常に疲れたと言う。カラタパールでエベレストの朝日を見たくて朝の4時ごろから登って降りてきた人がかなりいたとKさんの話。上に行ってもエベレストはほんの少し大きく見えただけだったと聞いて、残念な気持ちが少し和らぐ。7時半、朝食。普通に食べられた。

(Kさんの写真)
31日(0)

31日(1)

31日(2)

 

8時下山開始、登ってくるひとに何度も会う。荷物を運ぶゾッキョは黙々と歩いている。Yさんのいるロブチェに10時過ぎに着いた。下りてきてロブチェの小屋の主人に昨日のYさんの様子を聞くと、日中は寝ていて食事はほとんどしていない。水もあまり飲んでいない、などいい話はなかった。Yさんは「食べたよ」というので、部屋に行くと大きな皿にのったピザの一部がほんの少し減っているだけだった。
31日(4)

31日(5)

31日(5)ロブチェが見えた

(ロブチェがすぐした)

あとから聞いた話だがYさんは、昨日ラワと小屋の周辺を歩いたらしい。それもできるだけ上に行きたくて、また長い距離を歩きたくて散策したと。山岳会魂を見た気がした。 

ラチャーはYさんの顔と体を見て非常に良くない(dangerous)という。Yさんに廊下を歩くように言う。Yさんはまっすぐ歩いた。もし蛇行していたらすぐにレスキューヘリになっていたと、ラッチャーから聞いた。まっすぐ歩けたので、まだ何とかなる。ともかく下ろさなければいけないと、10時半ごろザックを持ってもらい空身になったYさんを前後で挟んで下山を始めた。
31日(6)ロブチェから下りる

 

上りの時ラワが痙攣を起こした小屋(デュクラ、4620m)まで2時間ほどかけてたどり着く。途中ここに来るまで、Yさんは吐いた。本当に恐ろしかった。デュクラの小屋でYさんはコーラを1本おいしそうに飲んだ。本当にほっとした。水分補給とエネルギ-補給。われわれはデュクラで昼食を摂った。更にペリチェ(4240m)まで下りなければならない。

31日(7)デュクラが見えた
(下に見えるのがデュクラ)

31日(8)ペリチェが見える
(遙か向こうにペリチェ)

昼食後;
1031ゴラクシェプ.ーペルシェ2後半グラフ

ペッリチェまでの降りでは、デュクラの小屋からすぐ、谷にかかった橋を渡ってほんの少しだが登らなければならないところがある。Yさんはこの上りで大丈夫かと心配していたが何とか上られた。それ以降はただ下るだけで、下るに従い頭もはっきりしてきた、呼吸も楽になってきた、と聞いた時は本当にもう大丈夫だと思った。ベルチェまでは広い河原の中を歩いた。右岸は氷河のように思えた。ペリチェには3時過ぎに着いた。Yさんはデュクラの小屋で休んでいる時一度、そして歩いている途中で一度小用があった。 身体が正常に戻り始めている。

ペルチェの小屋の4時のティータイムではYさんはポップコーンをおいしいと言ってたくさん食べていた。ミルクティーはほんの少しだった。食べたり飲んだりするのを見て、危険な状態から出したのだと思いほっとする。Hはカラタパールに登った時あった危険な状態から完全に回復し元気そのものになった。ペリチェの小屋まで歩行中に小用5回あり、小屋で測った血圧は正常だった。

11日目(111) ペリチェ8時-テンボチェ12時半 
1101ペルシェーテンボチェグラフ

ペッリチェを8時過ぎに出る。しばらく広い河原を歩いてその後緩やかな上りになった。やってくる人、後から追い越す人、これから登る人は元気である。ペッリチェ峠で一休みする。ここからは下り。降りていくとエベレストBCに向かって登っていったときの道に出会った。みんながそういうのだがよく覚えていなかった。やがてソマーレの町に着く。通過。ここはよく覚えていた。
1日(0)

1日(1)ペリチェ峠

1日(2)

1日(3)下にソマーレ

(下にソマーレの街)

 ソマーレから山の斜面沿いに下り、登りのときにとった道との分岐点に着く。ここははっきりと覚えていた。パンボチェ10時。
1日(4)パンボチェ

 

ここから川沿いに、川を左下に見ながら下る。どんどん下り、途中の道ばたのちょっとした広場にある仏塔(チベット語でチョルテン)から今夜泊まるテンボチェが見える。深い谷の向こうなので、一旦谷に下りて再び登らなければならない。そのコースがよく分かる。
1日(5)テンボチェが見える
(左の高台の上にテンボチェ)

かなり下り、谷にかかった高い橋を渡る。向こう岸に渡り、対岸の斜面を見ると、行くときに歩いた道が山の斜面に細く引いた傷口のように上に延びているのが見える。

 橋を渡り終えてからの道は広く、生活道路の雰囲気で、少し歩くとすぐに小さな集落が現れる。最後に150m程登りテンボチェに着いた。1時を回っていた。Yさんは空身だったが同じように歩けた。レストランにお菓子屋さんが併設されていて、Kさんがチョコレートケーキ、Yさんがクロワッサンを食べた。遅い昼飯、Hは焼きそばを食べた。
1日(6)

1日(7)ティンボチェ

1日(8)ケーキ

 

食事をしていたら日本女性らしき人が近くに来たので声をかける。聞くと、西遊旅行社の団体客の一人で、ルクラまで飛行機が飛ばずヘリがチャーターされたが(このあたりはさすが大手のツアー旅行だと思った)、なんとルクラまで到達できず途中で下ろされて、3時間ほど歩いて登ったという。この後、下りてからナムチェであった若い日本人女性からも飛行機が飛ばず1週間かけて登ったと聞いた。カトマンウからスムーズに飛べたわれわれはほんとうにラッキーだった。われわれが飛んだ後、3日間ほど悪天候で飛行できなかったと聞いた。すぐに飛べたわれわれはついていた。滑り込みセーフみたい。 

今日は宿泊客が多く、3人で一部屋しかとれなかった、ごめんとラチャーが言う。別にいいよとわれわれ。
1日(9)泊まった小屋

(泊まった小屋の前で)

こここテンボチェには、ネットの記事によると”エベレスト街道で最も大きいゴンパ(仏教僧院)があり、秋の満月には「マニリムドゥ」という大祭が開催される”という。ガイドのラチャーが「イベントがある、今日から始まる。おまえ達はついている」と言っている、それが午後3時半から始まるようだ。 れもネットから引用すると”期間中。数日間にわたって執り行われる祭りでは、僧侶によるチャムという仮面ダンスや劇、歌垣などが上演され、小さな村は年に一度のイベントを楽しむシェルパ達の熱気で包まれます”とある。 

3時を過ぎると泊まり客がぞろぞろとゴンパに向かっていく。ラチャーが早く早くと言うのでわれわれも急ぐ。お寺の中に入るには靴をぬがなければならない。押されるようにして中に入る。衣で着飾った僧侶67人がそれぞれ祭壇に向かって両側に並び、一番高い段に高僧とおぼしき人が座った。寺の中はそれを見るために入ったトレッカーでいっぱいである。 

読経が始まる。ゆったりとうねるような声が繰り返えされる。ときどき、ドラや太鼓の音。Hの座ったところが、アルペンホルンのような楽器の管部分の長いラッパが2本並んだ、その音の出る管の先端だったので、楽器担当の僧侶が管を吹くところに口を宛てる毎に耳を必死に塞いで儀式を見ていた。終わるような終わらないような読経がいつまでも続く。ラチャーが終了は7時だというので、途中で出てきた。まだ明るかった。テンボチェの夜、3人とも早々に床についた。

12日目(112) テンボチェ7時半-ナムチェ12時半
1102テンボチェーナムチェグラフ

朝のテンボチェ、まわりの山が美しい。大迫力で迫ってくる。来てよかった。寺院の後ろにローチェとヌプチェが見えたので写真を撮った。帰国してよく見たらヌプチェの上に少しエベレストの頂上が頭を出していた。
110201
本日の最終地ナムチェとの高度差は400m程だが、下りて下りて上って、最後にだらだらと長く下ってナムチェにつく道なのでけっこう厳しかった。 

まず、谷に向かってどんどん下りた。下りたところに軍隊の検問所があった。標高3250m、ここまで600m下りた。深い谷に架かった橋を渡ったあとはゆっくりゆっくり上った。11時頃、登りの時の分岐点につく。しっかり覚えていた。ここからエベレストBCに向かったのだと、もう1週間以上前になることを思い出す。 

ナムチェまでの下り道で振り返ると、ローチェとヌプチェが見える。エベレストの小さな三角の頂きも見える。
110202

 

 お昼過ぎにナムチェに着く。ホテルは来たときと同じサクラゲストハウス。昼食を済ませ街に下りる。家族の土産を物色して、靴下や手袋、自分用に胸にエベレストBCの文字、背中に地図が付いているTシャツを買った。
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110204

 

13日目(113) ナムチェ8時前-パクディン1時前
1103ナムチェーパクディングラフ

ナムチェを8時前に出る。どんどん下って登りのときに渡ったかの二重橋のところまで来た。この橋の手前に、最初のエベレストビューポイントと呼ばれる場所があり、来るときは見なかったが今日は見えた。エベレストは向こうの方に頂を出していた。 

橋を渡り終え、その後も高い橋を四つほど渡った。来た道なので歩いていても懐かしい感じがする。ここでオシッコした、などと話が出る。ゾッキョや馬による荷上げ隊になんどもで会う。中には10頭以上の行列もある。Yさんはまだ少し疲れ気味だが、排泄のほうは快調だし顔の腫れも引いてきて「シワが出てきた」などと本人が言う。よかった! 

軽いアップダウンを何度も繰り返し本日の最終地パクディンに1時前に着いた。花がいっぱい咲いている大きなホテルの宿泊地。行きの時もいっぱい花が咲いていた。道を挟んで大きなホテルが二つある。兄弟で経営しているとラチャーの説明。昼食にトマトスープと焼きそば(チョーメン)、実においしかった。

110301

今夜は超満員で150人以上の宿泊客がいるらしい。KさんとHにはベッドが二つある広い部屋があてがわれた。よかった。明日はルクラまで下りる。飛行機はうまく飛ぶのか。

14日目(114) パクディン7時-ルクラ10時、さらにカトマンズまで
1104パクディンールクラグラフ

血圧が正常になったので今日から薬を一錠に戻した。パクディンを7時過ぎに出る。2週間ほど前に通った道である。よく覚えている。3時間でルクラに着いた。 

予備日を考慮してカトマンズに帰る飛行機は117日に予約してあった。今日の便に変更するのは無理として明日は帰れるだろうと思っていたが、ラチャーが3人空席があったと嬉しそうに伝えてきた。われわれも大喜び。ここまで帰って来てルクラに滞在したくなかった。待合室で2時間以上待ってやっと飛行機に乗り込むことができた。
110401

小さな空港の上の土手のようなところからラチャーが手を振っていた。午後2時過ぎに離陸、無事カトマンズに帰ってこられた。 

ホテルで贅沢な夕食を摂って我が家にメールした。日本時間ではだいぶ遅かったのに返信が来た。

 

 

 

 

 

 

 



Author

早川 博信

早川 博信

 

一念発起のホームページ開設です。なぜか、プロフィールにその詳細があります。カテゴリは様々ですが、楽しんでもらえればハッピーです。


2017年秋、エベレストBCトレッキング -GPSによる歩行の高度差データあり-」への2件のフィードバック

  1. 鈴木利郎

    ヒマラヤをトレッキング、facebookで閲覧していて、無事の帰還おめでとうございます。
    トレッキングをした人の話を聞いたことがあるが、エベレストのBCまで行くのは珍しいのでは・・・。それも血圧の薬飲みながら。

    返信
    1. 早川 博信早川 博信 投稿作成者

      日本から行くパックツアーなどではBCまで行くのは少ないかもっしれないけれど、結構な人がBCまで来ていた。若い人はほとんど外国人ばかり。長い休暇が取れる日本人は年寄りばかりの感じだった。血圧の薬は常用薬だからなんと言うことないけれど、かなり高くなって、不調の時はいまから思うと血圧のせいかなとも。

      返信

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