2013年6月、地元の放射線の勉強会(311の会)の仲間と飯館村の長泥地区を訪ねた。長泥地区は飯館村の中で唯一帰還困難区域に指定されているところである。地区の自治会長さんの鴫原さんに村内を案内してもらった。そのときのことは「http://hayakawa-tobe.net/?p=322」に載っている。
2013年に訪問して以来、どんな風に変わったのか気になっていた。なぜ気になるのか、ときどき考える。福島原発事故は自分(H)のバカさ加減を見た事件であった。
原子力発電所が事故を起こし、放射能汚染で二度と帰れないような地域ができる、そんな事故は決して起こらないと信じて仕事をしていたバカ、バカさ加減。
おまえのバカさ加減など被害者のことを思えば取るに足りないことと言われそうだが、バカだったことはずっと忘れずに思って行かなければならないこととしてある。いろんなことが過ぎ去って行くけれど、このことに関してはどうもそうはいかないのである。福島原発事故のことはHの中で済んだことにならない。
2017年の11月、中日新聞に「負けない飯館 この目で」の見出しでサブタイトルに「交通費補助で訪問」とあるのを見つける。飯館村にふるさと納税すれば交通費の半額を村が補助してくれる制度があることを知る。
311の会で誰か行きませんかと声をかけたがみんなそれぞれ用事があり誰も手を上げる人はいなかった。友人で放射線防護が専門のSさんにメールするとすぐに返信があり、いっしょに行こうとなった。2108年3月28日から2泊3日で、飯館村長泥地区とできたら事故を起こした原発の近くの様子を見る、というのが旅の目的となった。
3月28日;
東京でS さんと合流して福島駅着、日産レンタカーでマーチを借りる。そこの職員が飯館村役場をナビに入れてくれたが、これがとんでもない案内をした。目的地に着きましたとナビが言うのがなんと山の中の峠。ほとんど人がいないところでやっと人を探し、どこであるか教えてもらう。「比曽だ」といわれた。あとで地図を見て長泥地区の隣の区だった。役場とはだいぶ離れている。まったく。
鴫原さんとの約束に30分遅れて3時に飯館村役場に到着する。こっちはよく覚えていたが、向こうは全く覚えていないとのことだった。役場の二階で補助金の手続きを済ませ、レンタカーを役場に置いて鴫原さんの車で長泥地区を案内してもらう。
飯館村に来る前、今回の訪問のことでいろいろ電話でお願いしているとき、「あれから5年経ってどうなったのか気になるので」と言うと、鴫原さんは「おれは気にならない、まったく変わらないから」と。絶句した。
以前もそうだったが、長泥地区の入口にはゲートがあり、頑丈なゲートの前には「この先帰還困難区域につき通行止め」の看板が掲げてある。警備保障会社の警備員の許可を得て開けてもらう。これは鴫原さんも同様である。「二人いたのが一人になったけれど」ということだった。(見学を終えてもう一つ別のゲートから出たが、ここは無人だった)
まず、自宅。中はきれいに掃除されている。家の横にある牛小舎が少しくたびれた感じがした他は、5年前といっしょだった。長泥地区で最も線量の高いと定点観測地点に行く。ここも2013年の時に来たことがある。あのときはわれわれは総勢6人で、たまたま会ったトラックターに乗っていた人が「こんなにたくさんの人に会ったのは久しぶりだ」と言われた。現在の線量は2.91μSv/h。原子力規制委員会が月に一度測定して、そこにあるデーター表に書き込んでいる。5年前と比べ線量は三分の一くらいになっている。
次に公民館、ここも同じ。事故当時線量が高いのも知らず(知らされず)、避難してきた人たちのためにおにぎりを握ったという、その米袋がまだ一つ半調理場の隅に残っていた。建物の外に設置してある線量計は、0.39μSv/h。ここも2013年と比べ同じく1/3くらいだった。
公民館を出て村内を移動する。フレコンの集合があちこちにあるが、濃いグリーンのシートで覆われていて初めて見たときとは印象が違っていた。見慣れたということなのか。いま飯館村には230万個のフレコンがあり、それらの集積地の出入り口には線量計が設置されている。
フレコの中身は剥ぎ取った土壌だけでなく可燃性のゴミ(被災家屋等の解体に伴い発生する廃棄物や家屋の片付けゴミなど約290,000トン)もあるので、それらを焼却して嵩(カサ)を減らすための施設として飯舘村蕨平地区仮設焼却施設が平成30年1月より稼働している。(もっと前から動いていたみたいだが、途中でトラブルがあって止まったとか、ネットの記事にいろいろ書いてあって正確な運転開始時期は分からない。このとき、鴫原さんからも詳しく聞かなかった)。環境省の説明には、「運転期間 原則3年。但し、村内廃棄物の量が計画よりも多くなった場合には、最長で2年間. 延長」とある。
施設内を見せてもらうにはちゃんとした許可が要るようでこの日は外から、それも施設を仰ぎ見るようなかたちで下から巨大なプラントを見た。近くにお墓があって墓石のまわりが茶色のシートで覆われていた。
「あれって、へんだろう」お墓の方を見ながら鴫原さんが言う。「ここは役目が終われば元に戻すらしいよ、どうなるのか」荷を積んだダンプカーが入っていく。からのダンプが出てくる。けっこう頻繁に出入りがある。
飯舘の道の駅「までい館」で夕飯を買って宿泊施設「きこり」に行く。フロントと風呂の入口に線量計があった。1泊したがだいたい0.1~0.08μSv/hであった。鴫原さんとSさんとH、3人で風呂に入って同じ部屋で地元の酒を飲んで大いにしゃべった。
(道の駅「までい館」)
覚えている限りでメモ
・起こったことから始めないと何も始まらない。
・放射線の影響について専門家は安全か安全でないか、はっきり言わない。自分で判断せよというがそれはできないよ。責任を持ってどっちなのか言ってほしい。
・中間貯蔵など中間で終わるはずはない。どこかに運び出すというが、そんなことはないだろう。できないならできないと、責任を持っていってほしい。それが聞けないので、信用できない。それがストレスになっている。
飲んだので、話はいろいろあちこちに飛んだが、この世以外のことも話題になったが、よく覚えていない。
3月29日;
「きこり」を出て鴫原さんと別れ、われわれ二人で村内を通ってHの希望で宮城県の山元町まで行く。2013年、311の会のみんなと来たことのある地点をもう一度見たかった。5年でどう変わったのか。(下の写真は飯館村村内)
山元町立中浜小学校は2013年当時見たのとまったく同じ姿であった。学校があったあたりは津波が来る前は住宅地で、2013年のときはまだ家屋の基礎が、それだけが、はっきり残っていて津波の恐ろしさを実感したが、2018年の時点では草が生い茂り、奥羽線も後退して、このあたりに人が住んでいたことは教えてもらわないと分からないだろう。
山元町から更に北上して亘理町まで行った。海岸に沿って幅の広い高さが5~6mほどの防潮堤が延々と伸びていて、その内側では「亘理太陽光発電所」が建設中であった。”2016年12月22日更新”の日付のある宮城県のホーム-ページには「亘理太陽光発電事業は、施設用地74.7haを山佐株式会社が取得し、発電出力49.3メガワット(1万9千世帯分に相当)の太陽光発電施設を建設するもので、平成30年4月の運用開始を目指しています」とある。
宮城県から福島県に入りさらに南下する。国道6号線は帰還困難区域になっている双葉町、大熊町、富岡町(ここは一部が帰還困難区域)を通っている国道で、事故後、”福島県内の一部区間は許可車両以外の通行が規制されていたが、2014年9月15日からは自動車のみ自由通行が可能となった”(ウィキペディアから引用)。ただし、自動二輪はいまだ通行不可である。事故を起こした原発を、少しでも見られるかと思っていたし、道の両側のゴーストタウンもどのようなのか見たかった。
「注意、国道6号線双葉町から帰還困難区域、(高線量区間を含む)」の立て看板が現れる。7年前の事故以来、放っておかれたままのガソリンスタンド、そこには錆の出始めた車が4,5台ある。街道筋なので、レストラン、ラーメン屋、回転寿司などあるが、どれも無人のまま。国道から住宅地に入っていく道はすべて金網の柵が張られている。交差点はいずれも進入禁止で警備のひとが立っている。初めて目にする風景を食い入るように見る。
<以下国道6号線沿線>
飯館村長泥地区は二度目の訪問だったので、ショックと言うより、ああまだあのときのままなのか、と感じたが、ここ国道6号線は本当にショックだった。本当に。しかし。トラックが盛んに走っている。毎日この道を通る車もあるに違いない。それを運転する人たちは毎日ショックを受けていることはないだろう。見慣れて日常になり、それはそれで人の常としてあることだと思う。無人の風景になれてくることは、原発事故になれることではない。片方で風景になれ、同時に片方で事故を許すことは決してないこと。時間をおいて何度も同じところを走り、いつまでも帰還困難区域のまま残っている町を見たらどう感じるのだろうと自問していた。