今頃の感がぬぐえないが、地元の読書会(全く熱心でない会員)でカズオ・イシグロ『わたしを離さないで』が取り上げられるというので読んだ。とても刺戟的だった。以下がそのメモである。
全体;
キャシーが物語の語り手。キャシー、ルース、トミーの三人の小さな行き違いや、誤解や愛や友情や、それらが繰り返されて出てくる。それらの底に流れているのは、最初は普通の人間の成長の段階で誰もが持つ感情であり、後半ではクローン人間としてこの世に生み出され(=作られ)、いずれ利用されて一生を終えることになっていることを知った3人の心の動きである。
記憶;なにかを心に残すこと、それも些細なこと、小さなことを限りなく愛おしく、残すこと、それが介護人として、そしてドナーとして生涯を終えるキャシーにとって大切なことであった。
臓器提供のために作られたクローン人間というテーマ、そのようなものが魂を持つようになるのかというテーマ。それらはとても大きなテーマだが、作家はそれらを聲高に直接的に語るのでなく、三人の登場人物を通して、エンターテイメント性を供えた物語として展開していく。切ない場面がいくつもある。クローンであることとは独立に、またある時はそれらをバックグランドにして。
この物語の語り手であるキャシーは、ところどころで、「申し上げたように・・・」という言い方をしている。これは誰かに向かって話していることだと思うので、それが誰なのか、どういう状況なのか、ひょっとして、使命を終えることを知ったキャシーがその時点で話しているのでないか。誰だかは想像できない。
分からなかったことがひとつ。ヘールシャムにおける教育とはどのようなものであったのか。そこにおける教育でかれらは”提供者”であることを拒否できなくなったのか。拒否の可能性はどう考えたらいいのか。
章ごとに;
全体は3部からなる。第1部は第1章から第9章まで。舞台は「ヘールシャム」と呼ばれる教育施設。第2部は第10章から第17章まで。コテージをよばれる訓練所。第3部は第18章から第23章まで。コテージを出てからのこと。
第1章、 語り手は、キャシー・H。31歳の介護人、11年以上携わっているとうが、”介護人”とは何なのかわからない。子どもの頃から「ヘールシャム」で育てられる。そこに一緒にいたルースとトミーの物語が語られ始める。ところどころ「申し上げているように」というのが出てくるが、誰に申し上げているのか、最後まで分からなかった。”提供者”が出てくるが、この意味も途中明らかにされない。
第2章の終わり方が次の章を読みたくなるような終わり方。そのようなのがところどころ出てくる。先にすらっとなにかを出して(提供とか、マダムとか、展示室とか)、それらは直ちに説明されない。小説としてのエンターテイメント性。
ヘールシャムがどのようなところなのか、マダムが施設にやってくるところでその風景がはっきりしてくる(第3章)。坂を下る道があってその下にある施設。ピントのぼけていた写真のピントが合ってはっきりするような印象だった。まわりは森でそこは恐ろしいところ。迷って入ると何が起こるか分からない。実際、両手両足が切断され木にぶら下げられていた少年があったとか(第5章)。
エミリ先生(主任)「・・・あなたたちは特別の存在です。・・・・なぜわたしたちの努力を挫こうとする・・・」特別な存在とは何で、わたしたちの努力とは何か、終章の第23章で明らかになる。(第4章)
なくしたカセットテープ、そこに入っていた『夜に聴く歌』の3曲目に「わたしを離さないで」が入っている。(H注記、「わたしを離さないで」は「NEVER LET ME GO」。直訳すると「私を(どこかに)行かせないで」。こちらの方が分かりやすかった)
そのテープはこの施設のどこかにある。それはロストコーナー(=(ヘールシャムの)遺失物保管所)にあるに違いない。ノーフォークはイギリスの「ロストコーナー→忘れたれた土地」。終わりのほうでキャシーとルースとトミーはそこに行く。
タバコを咎める場面で「あなた方は・・特別な生徒です。・・・とくに内部を健康に保つことが重要です」(第6章)。このあたりからこの施設の特殊性が分かってくる。”提供”の意味も。ただ、このあたりで読みながら想像していたことと最後に明かされることと間には驚愕のギャップがあった。
語り手のキャッシーがひとりで「ネバー・レット・ミ・ゴ」を聴いているとき、それをそっと廊下で見ていたマダムが泣いているところがある。「泣いた」意味も終章で分かる。(第6章)
第7章は施設での最後の数年間。キャシーの13歳から16歳までのこと。前半(それ以前)と後半(最後の数年)は、昼から夜への変化。急速に暗転した。このように結論がまず語られるとその先を読む気が起こってくる(前述のエンターテイメント性)。ヘールシャムが将来臓器を提供するための子ども達を教育している施設であることがこの章で初めて出てくる。ファスナーで身体の一部をあければそこから臓器が取り出せる、悪い冗談が広まった(第7章)。章の終わりにルーシー先生のことが出てくるがその詳細は次章で、という書き方になっている。第8章を読みたくなる(仕掛け)。
第8章、22番教室のルーシー先生、シュー、シューという音。ノートの文字を鉛筆で消す音だった。それがトミーとルーシー先生との間の重大な出来事と関係してくる。これも終章で明らかになる。ルースとトミーの破局があり、状況は一気に変わりました(次章、9章へ)。
トミー自身の言葉によれば「トミーとルースの破局より、トミーとルーシー先生の間にあったことの穂が重大」。ルーシー先生「絵は上手でなければいけない。”証拠”だからというだけでなく・・・」
ルーシー先生が辞めるという大ニュースが入る。ここで第1部が終わる。ルーシー先生がなぜ辞めたの、辞めさせられたのか、これも終章に出てくる。
第2部
第2部の舞台はコテージ。どれくらいの規模のどのような施設なのか分からない。ヘールシャム卒業生のうちここに来たのは、キャシーを含めて8人。管理人(とは書いてないが、そのような役割の人)はケファーズさん。コテージでは互いに部屋を行き来していてのんびり過ごしていた。ヘールシャムとは違う。(第10章)キャシーは論文を書く作業に。コテージでは講習会があった。これは介護人になるための講習会。”介護人”とはどのような人なのか、まだはっきりしない(第11章)。
第12章、キャシーの『親』がノーフォークにいるのを見たと、コテージにいるクリシーとロドニーが言う。それを聞いたキャシーは見たいと言い出す。このあたりで、ヘールシャムにいた生徒たちは臓器提供のために作られたクローン人間であることが分かる。『親』とはクローンの元の人間、「わたしのポシブル」という言い方。(注;ポシブルはpossibility、可能性)
『親』を探しに、クリシーとロドニーがキャシーとルースとトミーとをノーフォークに案内する。途中での話から。愛し合っている二人は3年間”猶予”が与えられる。ルースはそれを信じる(第13章)。
ルースの『親』という人をやっと捜し当てるが、それは『親』でないことをルースも認める。ルースには夢があった。ちゃんとした事務所で働く女性(小説には具体的な描写あり)(第14章)
第15章から引用;ノーフォークでキャシーとトミーはカセットを探す。キャシーがそれを見つける。「それまで、珍しいものがあるたびに歓声をあげていたわたしが、なぜそのときだけは声が出ませんでした。・・・テープ探しという口実があったからこそ、この楽しい時間がありました。見つけてしまっては、それはもう終わりではありませんか。・・・」
「トミー、あまり喜んでくれないみたいね」と、冗談めかした口調で言ってみました。「いや、嬉しい。君のために嬉しいよ。ただ、俺が見つけたかった」
マダムとは何だったのか、展示館とは。目的や意味をトミーが語る。本当に愛している二人は猶予が与えられる。本当に愛し合っているかどうか、それを確かめるのが作品であり展示館だと。
第16章、「ガチョウ小屋」とトミーの空想生物。絵を一生懸命描くトミー。教会墓地での「トミーの展示館理論」。それをバカにするルースとかばうキャシー。ふたりを残して去って行くキャシー。
第17章、キャシーはルースとトミーのことで話しあい、そのときのもやもやがルパーブ畑の思い出を語るとき、二人の間の食い違いとして現れ元に戻ることはなかった。キャシーは介護人になることを決心し、コテージを出ることを決める。ルースはそのことをケファーズさんに伝える。
第三部。コテージ以降の話。
介護人になったキャシーと提供者になったルースとトミー(第18章)。キャシーとルースはキングスフィールドの回復センターにいるトミーを訪ねる。ルースは言う。「許してほしい。これまで嘘をついていた。」グースはこれまでついていたという嘘を二人に打ち明ける。そして、「マダム」の住所が分かったからと、二人にそれを示す。会いに行って欲しい、そして頼むのだと。トミーに猶予が与えられるようにと。キャシーはルースの最後に立ち会い、トミーの介護人になると約束する。(第19章)
トミーの三度目の提供。それが何回行われるのか、死ぬまで行われるのか(そのように読める)。トミーがキャシーに言う。「なにをやろうとももう手遅れでないのか。絵を描くことセックスも(第20章)
キャシーとトミーはルースが調べたマダムの住所を訪ねてマダムに会う。ふたりにとってマダムは”最近数年間に会った誰よりも親しく、誰よりも近しい人のように思えた”。マダムの名前がマリ・くろードであることが分かる。ヘールシャムで主任だったエミリ先生が車椅子に乗って現れる。(第21章)。
本当に愛しているカップルなら猶予が与えられるというのは噂過ぎずそんなことはない。マダムが作品を集めていたのは(=エミリ先生が集めていたのと同じことになるのか?)、人造人間に魂があるのか、宿るのか、それを知りたかったから。作品でそれを確かめたかった。そのようなのを支持する人たち、団体もあったがモーニングデール・スキャンダルでいっぺんになくなった。モーニングデールは人間より優秀なクローンを作ろうとした科学者であるが、そのような試みを世間が拒否し、その延長線上にあったヘールシャムもつぶれた。最後にトミーが言う。「そうか、心のどこかでおれは知っていたのだ。君ら誰も知らなかったことをな」(第22章)
第23章(終章);トミーはキャシーに介護人を変えたいと言う。「・・・君も提供者になれば分かる・・・」。トミーの空想。”流れの速い川の中に二人は流されないようにとたがいにしがみついている。しかし、二人はバラバラに流される”。トミー「・・・だっておれたちは最初から-ずっと昔から-愛し合っていたんだから。けど、最後はな、永遠に一緒というわけにはいかん」。二人の回想、トミーとキャシーは知りたがり屋、ルースは信じたがり屋、小さい頃から。四度目の提供でトミーも死ぬ。
キャシー;「一本の線のこちら側にわたしとトミーがいて、あちら側にルースがいます。こんなふうに分かれているのは、わたしには悲しいことです」。
最後、海岸でキャシー。「待っているとやがて地表線に小さな人の姿が現れ、徐々に大きくなり、トミーになりました。トミーは手を振り、わたしに呼びかけました・・・。空想はそれ以上進みませんでした。・・・。しばらく待って車に戻り、エンジンをかけて、行くべきところに向かって出発しました」
全然知らなかったが、カズオイシグロがノーベル賞受賞し、「日の名残り」を読んでみた。
確かに独自の文学的空間を形成している。
他の作品も読んでみたい思わせる作家である。
故に「わたしを離さない」も読んでいない。
TV等の情報によると、時間を制限された命に関わる作品で、
我らの命の時間には制限がないのか、そんなはずはない・・・なんて考えてみたりする。
ところで学生の頃、ベケットがノーベル賞を受賞し、「ゴドーを待ちながら」を買って読んだがまるっきり分からなかった。
最近、堀真理子著『「改訂を重ねる「ゴドーを待ちながら」演出家としてのベケット』を読んだら少し分かった。本来芝居を見なければならないだろうが。
ありがとう。「わたしを離さないで」は面白かった。恐ろしくもあったけれど。「ゴドーを待ちながら」は”あらすじ”(あるようなないような)だけ知っているけれど、演劇を見なければ面白さは分からないと思う。残念ながらチャンスがない。