ニホンイシガメ


カメ1

660坪ある畑の下を川が流れている。写真にあるように、畑から一気に川まで下りているのでなく、途中に河川管理道路が畑と河に沿ってある。河川管理道路は公共のものだが、各自自分の畑部分の管理道路は草刈りをするのが通常の決まりみたいになっているので、畑の法面とこの道路と両方の草刈りをしなければいけない。土手の草刈り

畑の土手の草刈りをしていたら側溝に亀がいた。側溝に落ちた草の上に乗るようにしていたので、甲羅は乾いているし、全く動かないし、これは干し上がったのかと最初は思ったが、水のあるところに置いてだいぶ時間が経ってから見に行くと、頭を出してそろそろと動いていた。

カメ1

ニホンイシガメ、日本古来の亀で環境省レッドリストでは「準絶滅危惧種」になっている値打ちのあるカメなのである。こんな所にいては生きていけないだろう、もとの川に放そうと、頭と両手足を完全に引っ込めて石状態になっている、手のひらにおさまらないくらいの甲羅を持って川に入れた。岸辺でどうするのかじっと見ていた。

カメ2    カメ3            

水の中に入れてもなかなか石状態はとけないのである。数分たったころか、もう本当にもう大丈夫と思ったようで、頭をいっぱいに伸ばし水面にだし、手足もいっぱいに伸ばし、泳ぎだしていった。

カメ5

 

これは仏教でいう放生(ほうじょう)だ。捕らわれの生類を放して逃がして、生かしてあげる行為、善行のひとつである。といい気になっていたが、放したあと、確かにカメは川の流れの中に向かって泳いでいったが、途中、石に引っかかって、なんと今度は岸に向かって帰ってきたのである。

カメ6

 

帰宅してこの話をしたら、昔カメがよく畑に入っていたよ、と妻から聞いた。「大きなスイカがあって明日食べようと翌日見に行くと、大きくない、おかしいと思って持ち上げたらカメが頭を突っ込んで食べていた」 

カメは川からあがり、畑の法面を登り、やっと畑に達したのか。それなら、側溝にいたカメを川に放したのは善行でなくて、悪行だったのかも知れない、などと思ったが、本当のことは分からない。 

後日談:

 新潟在住の年長の敬愛する友人のHKさんにカメのことをメールで知らせた。HKさんはカメ好きで、ずいぶん昔名田庄で捕まえたイシガメを新潟まで持って帰り未だにそれを飼育している。メールの最後に、小林一茶に「放し亀」を季語として、『放し亀 蚤も序に とばす也』という句があることを知った“ と書いたら下記のような返事が来た。 

一茶の句をまねた学徒特攻隊員が出撃前に残した句を思いだしました。

「やれいくな、俺はいやじゃと虱言い」、また別の人は「南海の花と散るより、ふるさとの野辺の草葉になりて咲きたし」。 “

それで、小生より10歳以上年配のHKさんに戦時中のことを訊ねると、次のような返信があった。

私は中二15歳の時(敗戦年4月)大阪幼年学校に入りましたが、後で知った所では和歌山県白浜に米軍が上陸したときの婦女子避難誘導要員でした。当時米飛行機が幼年学校上空を通過して連日阪神地区を爆撃し、黒煙が地平線から立ち上がっているのが遠望されました。学校には翌日黒い雨が降りました。防空壕からは爆撃帰路の飛行機が地上すれすれに降りてきて学校をのぞき込み機銃掃射する米兵の顔がみえました。不思議に他人ごとのように、映画を見るように、ごくろうさんというように、米兵を眺めていました。

空襲警報解除になって教室に戻ると、そこにロシヤ語の教官が座ることになっていた椅子の背を機関銃の銃弾が貫通しており、教官が危ないところだったなあ、とこともなげにいったのでみな笑いました。三食、おやつ(甘味品)、蒸気風呂、面白授業(西洋史、美術)付き生活をしていると、誰か守りたい人のためにいつ死んでもよい、という気分になるのでしょう。面白化学の教官はヒガンバナからシャンパン(学名ヒガシャン)を作る研究をしていました。フランス語の教官は戦後東北大の教授になりました。。。“



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早川 博信

早川 博信

 

一念発起のホームページ開設です。なぜか、プロフィールにその詳細があります。カテゴリは様々ですが、楽しんでもらえればハッピーです。


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