Hの人生


2015年の初秋、大学院の同窓会があって7人の同窓生のうち5人が集まった。われわれは在学当時から「少女趣味的」だとある教授からいわれていて、そういう教授本人もそれを嫌っている様子はなかった。こんど集まって、あの当時作っていた文集をまた作ろという話になった。私は「Hの人生」を題して原稿を提出した。

 書き出しは以下の通り:

「今まで何をしてきたのか、どんなことがあったのか、そのときどんなことを思ったのか、そんなことを時間の順ではなく、短いエッセイのタイトルをあいうえお順に並べた形で書いてみたい」 

 目次があり、それらは以下の10項目である。このうちから、「2.下宿」と、「3.五右衛門風呂」を転記したい。 

目次

1.当たった

2.下宿

3.五右衛門風呂

4.東西冷戦構造崩壊の前後

5.登山靴

6.名田庄多聞の会

7.何かしなければ

8.福島原発事故と311の会

9.山

10.最後に

 

2.下宿(1960年~1969年)

 幼いころ、まだ小学校に上がる前、つぎつぎと弟妹が死んで、自分だけはどういうわけか健康であった。田舎のことなので、「おまえは皆の分まで云々・・」とか、「おまえの命の中には弟妹たちの命も云々・・・」とか、そんな難しい方ではなかったかも知れないが周りの人たちがわたしに伝えたがっていたのはそういうことであった。ともかく非常に鬱陶しかった。負担になるのです、そういうふうな言われ方をすると。 

 高校に入り、当時国鉄のバスが名田庄から小浜まで走っていて高校生はそれで通学していたが、わたしは疲れるとか勉強する時間がないとか言って、高校一年の二学期から小浜で下宿することになった。最初は叔父の家の二階であった。近くを小浜線が走っていた。夜机に座り蒸気機関車の汽笛を聞いていると、ああ今あれを操作して機関士がいるのだと、夜の闇を疾走する列車に思いを馳せ、非常に開放感を味わったのを覚えている。もう自分だけの世界だと、うるさいのは周りにいないのだと。

 そこの下宿はいろいろあって二学期だけで止め、三学期から入った下宿は今度も遠い親戚にあたる家だった。そこは神道系の宗教の家で(たしか、黒住教の、寺というか神社のようなところ)朝早くから大きな低い唸り声のようなお祈りがあった。それが夕方もあったような気がする。耳障りだったので「もう少し小さい声で」と頼みに言った。今から思えばそんなことは可能だとは思えないが、ともかく頼みに言った。「声が気になるようではダメだ、集中すればそんなことは気にならない」と言われ、ここも三学期だけで止めた。 

 当時わたしが在学していた若狭高校はホーム制という縦割りの組織で勉強以外の学校生活が回っていた。普通科、商業科、家庭科と三科あって、それぞれ一年生から三年生までごちゃごちゃに混ぜた単位がホームであった。35ホームまであり、一つのホームは30人かそれ以上いたような気がする。授業以外はこのホーム単位で動いていた。例えば体育祭、文化祭、音楽祭など。昼食時の部屋はホーム毎にあり、授業が終わって昼飯を食べに各自自分のホームに向かうので、廊下はごった返していた。ホーム担任(アドバイザーと言った)がいて、勉強以外の面倒を見ていた。アドバイザーはわたしが下宿を探しているのを知って、自分がいるところに来ないかと誘ってくれた。福井から来ておられた社会科の先生で自身も下宿していたのである。 

 二年生からの二年間、その先生と同じ下宿にいた。そこは大きな町屋の奥にある土蔵を下宿用に改造したもので、分厚い土壁の扉の向こうに廊下を挟んで四つの部屋があった。ここは天国であった。四つの部屋の住民はわたしとホーム担任の前田先生、それに小学校の女性教員、一般の会社員であった。会社員のかたは日曜日毎にせっせと革靴を磨いていた。下宿なので朝夕の食事の他弁当も作ってもらった。 

 わたしの部屋は同じクラスのたまり場であった。そうたくさんの同級生が来たのでない。気の合ったものがせいぜい三,四人、こんな映画を見たとか、XXが好きになったとか、そんなことを話すのに集まっていた。勉強だけしておればいいので、こんなすてきな生活はなかった。中学校までずっと鬱陶しかった気分も高校になり消えた。 

 大学は金沢大学で、石川門をくぐって学内に入った。生協の本屋が並木の向こうにあった。初めて見たとき、非常に現実的な(リアルな)既視感があった。ここは来たことがあると確信できるくらいの既視感であった。 

 最初の下宿は医学部の近くで、母屋に三部屋、離れに三部屋あった。離れは二階建てで下は子どもさんが数人いる家族が住んでいた。二階にわたしの他、医学部の学生、しかしその頃は本当におっさんと思うくらい年配に見えた人たちが二名住んでいた。四国から来ていた人の部屋からは森繁久彌と加藤道子の日曜名作座がいつも聞こえていた。もう一人は大阪の人であった。三人はどういうわけか気が合って、ときどき、食事がまずいなとか、ほか何か忘れたが家主の悪口を言っていた。それが聞こえたのかどうか、離れの人だけ引っ越して欲しいと言い渡され、やむなく出ることになった。 

 次に入ったのは、浅野川の近くの門がでんとある大きな屋敷だった。そこの二階に四部屋あり、NHKに勤めていた人が一人、あとは学生であった。庭が広く、そこにはせんべいを焼く工場があった。家内工業レベルの工場だが帰ってくるといつもせんべいの香ばしい良い匂いがしていた。ここに三年いた。大学までは歩いて十分足らずのところであった。隣の部屋は岐阜県の神岡から来た一年先輩の法文学部の人でふすまのドアーを叩いては「話に入って良いですか」と言ってしょっちゅうその人の部屋に行っていた。北アルプスに初めて連れて行ってもらったのもこの人であった。山に親しむようになったのもこの人のおかげである。当時の学生で『資本論』をすべて読んだのはこの人が最初であると言われていた。卒業後、東京銀行(当時唯一の外国為替専門銀行)に就職されたが自殺されたと聞いた。金沢は浅野川と犀川の二本の大きな川が流れ、緑も豊かなところだった。山も見えた。名古屋に移ったとき、それら川や山がなかった。本当に金沢が恋しかった。半年くらいは魂がまだ北陸上空を漂っていた。 

 名古屋での下宿は覚王山の「日泰寺」のすぐそばだった。ベニヤで仕切った程度の壁がある、四部屋が田の字状になっている下宿だった。ここの下宿は食事はなかった。自分以外そこにいるのが誰だったのか知らず、まったく交渉もなくただ一人静かに住んでいる状態だった。金銭的に厳しい生活だったので、じっとお昼頃まで部屋にいると、ときどき「早川さん、お昼食べます?」と家主さんから声をかけてもらえることがあり、それを期待して待っていることがあった。下宿では食事がなかったので三食は専ら理科系食堂に行った。空腹を抱えて行くのに学食に近づくにつれて油のいやな匂いがして空腹感が消えていくのが分かった。いやだった。おいしいものが食べたいときは助手の佐藤さんに「どこかで何かおいしいもの食べさせてもらえないか」と頼んだ。佐藤さんは「コーチンでも食べに行くか」と連れて行ってくれた。情けない下宿生活だった。 

3.五右衛門風呂(生まれてから~1995年まで)

 長いこと我が家のお風呂であった五右衛門風呂のことを書きたくて、いつ頃まで使っていたのか、改めて調べてびっくりした。ずっと昔のことだと思っていたのが、改築してトイレや風呂が新しくなったのが平成七年だったのである。この年わたしは51歳で、100歳まで生きるとしてその半分が五右衛門風呂に入っていたことになる。これは正確に言うと間違っているのです。高校の時から下宿生活を始め、その後就職して家に帰ったのは30も半ばを過ぎてからだったかです。

 五右衛門風呂と言っても釜だけがどこか外にどんとあってひたすら下から薪をくべるというようなのではない。いちおう、釜の周りはタイルで囲われていてちゃんとして部屋の中に収まっていて、洗い場も着替えする空間も確保された立派な風呂場なのである。薪をくべるところが室内の風呂釜のすぐ近くなのでわたしは外から声をかける「湯加減はどうだ」

 釜全体が暖まり、下には燃えた薪の燠が残っているので、翌朝になってもお湯は温かい。誠にエコな風呂と言える。 

 良いことずくめの五右衛門風呂だが、一番いやだったのが薪作りだった。川を渡ったところに木材市場があり、そこに長さをそろえるのに切られた一メートル弱の杉の丸太が転がっている。ただでもらえるので妻と一緒に拾いに行ってライトバンの後ろ座席を倒して持ち帰っていた。この作業は少しもいやではなかったが、持ち帰った杉の丸太を割って薪にするのもそれほどいやでなかった。ただし、それが大量となると薪作りに追い回されることになる。

 ナラやクヌギのような堅木は火持ちが良いのだが、杉はすぐに燃え尽きる。それでたっぷり準備しておかなければならない。ところが、割っただけではすぐに使える薪にならない。薪は乾くまで時間がかかるのである。だいぶ前から割って並べておかなければならない。この作業がとても忙しい。これをサボると、半生(はんなま)の杉を薪にしなければならず、そうなると薪が焚き釜の中でぶつぶつと泡のような水分を放出する。火力も弱い。その度に「もっと早くから作っていてくれていれば」とどこからか文句がでる。 

 煙突掃除も大変だった。かなりの煤が煙突にたまる。屋根に上がって上から大きなブラシ状の煤落とし棒を刺し込んで上下させる。下の煤ためにどっと落ちてくる。これをサボると、燃やしているときに火の粉が煙突から飛ぶのである。掃除しない煙突は大風の時には風呂を沸かすことが出来なかった。

 そんなこんなで、風呂とトイレのある建物を建て替えるとき(言い遅れましたが、風呂もトイレも昔の格付けでは”ご不浄”だったので、すべて外にあった)、トイレは水洗に風呂はユニットバスになった。外にあるのは変わらず、雨や雪が降っているときはあいかわらず母屋から走って風呂なりトイレに行かなければならない。

 新築なった風呂に、母は「こんなお風呂におばあちゃんを入れてあげたかった」と言った。母は子どもをたくさん亡くし(一歳前後の子4人、つまりわたしの弟妹)、連れ合いを若くして亡くし、祖母とわたしの三人暮らしが長かった。わたしは、ああそんなことを思うのかと、ちょっと感慨深かった。



Author

早川 博信

早川 博信

 

一念発起のホームページ開設です。なぜか、プロフィールにその詳細があります。カテゴリは様々ですが、楽しんでもらえればハッピーです。


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