「空気を読め」という。言葉を交わしあうのでなく、雰囲気をつかめと。それが常識だと。まったく横柄で傲慢で不快なことがまかり通っている。私はこの手の言い方が大嫌いである。なぜこんな発想が出てくるのか。その説明かなと思うものを見つけた。母語である日本語の基本的な構造に由来しているという。それを以下に引用する。日本の世間の常識と戦う人たちは母語をまず相手にしなければならない。
片岡義男著『日本語と英語』(NHK出版新書、2012年)から引用;
いつのまにかそうなっている(p.101~)
「主語は必要ない、という日常の言葉で、日本の人達は日常を生きる。自分は言葉で生きている、というような自覚などいっさい必要がないほどの日常だ。そしてそこは主語のない世界だ。言葉によって言いあらわされる内容の中に、主語は内蔵される。したがってそれは暗黙の了解事項であり、いちいちおもてにあらわれる必要はないし、言葉の構造じたい、常に主語を明確に立てるようには出来ていない。(中略)
なにごとも動詞をとらずにすませるための主語の不在。思考が嫌いなのだろう。というよりも、それが出来ない。主語は隠れていることがほとんど常に可能だから、主語の主語たるゆえんである思考も隠れる、つまりそれは出来ないし嫌いだとなると、当然のこととして、思考に基づく行動も嫌いだろう。だから思考と行動の両方を放棄しても、日常の言葉を日常的に使って日常を営むには、いっさいなんの不自由もない。
いつのまにかそうなっていて、いまもそうなったままの状態のなかに、人々は入りたいと願う。いつのまにかそうなって、いまもそのままに、そこにある状態。人々はこれが大好きだ。だからそこに自分も入りたがる。いつのまにかそうなってそこにある状態は、現状とその延長に他ならない。それが大好きでそこに入っていたいのだから、いまそこにあるその状態には、身をまかせるかのように従わざるを得ない。なんの疑問も抱くことなく、ほほ自動的に従う。だから問題はなにも見えないし解決もされない。現状は悪化していくいっぽうだとしても。(後略)」
多和田葉子著『言葉と歩く日記』(岩波新書)を図書館でたまたま見つけて読んだ。あまり熱心な読者でないが、だいぶ前に読んだ小説で、物語が「あなたは・・・」の形式で出てきて、それを読んでいるのが、読んでいる当の本人なのか小説の中の人物なのか、めまいを覚えるような混乱があった。この新書も非常に面白く、全部引用したいくらいだが、一カ所だけ(p59~p60)。
https://www.iwanami.co.jp/cgi-bin/isearch?isbn=ISBN978-4-00-431465-3
”ハイデッガーがトラークル論の中で、この詩人が「Im Dunkel(闇に中で)」という詩の中で「schweigen(黙る)」を他動詞として使っていることに注目していることを思い出した。「青い春が魂を黙る」。「黙る」は普通、目的語を取らない。それは日本語も同じである。黙るときは対象がないと決めつけていいものだろうか。文法に思考を譲り渡してはいけない。「黙る」時、そして「死ぬ」時こそ、直接目的語を捜した方がいいような気がする。“
伊藤比呂美を論じているところでは、思わず笑ってしまいました。爆笑に近かった。