カズオ・イシグロ『クララとお日さま』(早川書房、2021年3月)と、イアン・マキューアン『恋するアダム』(新潮クレスト・ブックス、2021年1月)
前者はカズオ・イシグロのノーベル賞受賞後の最初の作品であり、後者はイアン・マキューアンの最新作である。
人型ロボット、あるいはアンドロイドといっても機械臭さは逃れられないが、実際、『恋するアダム』の原題は「Machines Like Me - And people Like You」となっているが、そんなイメージとはまるで違う、ほとんど人とまがうばかりのアンドロイドが登場する小説をふたつ続けて読んだ。
『クララとお日さま』に登場するロボットはAF(Artificial Friend、人工の親友)のクララ、一方『恋するアダム』では人造人間と訳されているアダム。クララのエネルギーは太陽光、アダムはケーブルから引く電気が動力になっている。
簡単すぎる結論になるが、クララのようなのなら一緒にいても良いかなと思うが、アダムはちょっと一緒に暮らすには厳しいかなと。
1.『クララとお日さま』;
第1部から第6部まである440ページの大作である。小説の語り手(わたし)はクララ。
時代は近未来、クララはB2型・第三世代のAFで、お店で誰かに買われるのを待っている。そのお店には女子AFが何人(何体)も並んでいて、それぞれのAFは独自の個性を持っている。お店の店長さんはとても親切な方。そこにいるAFはみんなショーウインドーの近くにおいてほしいと思っている。お日さまの光をいっぱい浴びたいし、そこはお客さまの目につきやすいから。
クララは「外」を見るのが好き。人が怒り、悲しみ、喜び、それらが一人の人の中で変化していくのを見て、学ぶ。
ショーウインドーに立って4日目、病弱の女の子ジョジーが母と一緒にやってきてクララをいっぺんに気に入る。クララを買ってほしいという。その日はそれだけで帰って行った。クララはジョジーが来てくれるのを待っているがなかなか母子はやってこなかった。
数ヶ月が過ぎ、ジョジーは約束を守ってお店にやってくる。母親はクララに質問する。娘の歩き方で何か気がついたことはあるかと。
「たぶん、左腰に弱さを抱えています。加えて、右肩に痛みの原因がひそんでいます。ですから、ジョジーは急な動きや不要な加重を警戒し、そこを保護しようとする歩き方をしています。」
母親はそれならジョジーをまねて歩いて見てと言う。
クララの歩くのを見て、母親は言う「いいでしょう、このAFにします」ジョジーは両腕でクララをしっかり抱きしめる。
ジョジーには「人生を一緒に過ごすことになる」幼い頃からの友達のリックがいる。リックの家はジョジーの家と離れた野原にある。ジョジーは「向上措置」を受けた子だが、リックはそうではない。「向上措置」は、裕福な家庭の子がより優秀な子になるように行う遺伝子編集である。「向上措置」を受けた子は社会のエリートで、受けられるかどうかは、家庭の経済状況による。
リックにはそれほど健康でない母がいて、一人にしておけないとリックが考えているのでないかと母は思っている。クララはリックの母との会話で、母はリックのために一人になることを望んでいることを知り、人は孤独になる選択をすることもあるのだと知り驚く。
ジョジーの家とリックの家の間にマクベインさんの納屋があり、そこはお日さまの休憩所である。落日の夕日が納屋の窓から差し込んでくる。そこにジョジーの病気を治すことができる秘密があるとクララは信じていて、お日さまにジョジーを治してくださいとお願いする。
「クーティングズマシン」、-何か汚染物質を放出している、土木工事用の巨大な機械のようだが、詳しいことは書かれていない-、が世界を汚している。お日さまは汚染を嫌い、悲しみ、怒っている。クララはそれを破壊することをお日さまに約束する。お日さまはクララに優しくし微笑みかける。
ジョジーの母クリシーには癒えない悲しみがあり、それはるサリー(ジョジーの姉)を亡くしたこと。ジョジーに同じようことが起こるのでないかと言う思いが消えない。もう二度と同じ目に遭いたくない。そのため、ある計画を持っていて、それは進行している。
肖像画家のカパルディさん。彼はAFを研究していると称し、AFに強い興味を持っている。ジョジーはそこに何度も通い、写真を撮られたりしている。
クララは母親のクリシーと一緒にカパルディさんを訪ねて、目下進行中のある計画の全貌を知る。それはジョジーの心を全部完全に持ったAFを作ること、不死のジョジーを作ることであった。カパルディさんはそれは可能だという、母のクリシーはそれに100%納得していないが、しかし、心のどこかで望んでいる。ジョジーはそのことを知らない。
クララはジョジーが治ればそのようなことをしなくてもすむし、まだジョジーが健康を回復することは可能だと言う。クーティングズマシンを破壊し、お日さまから栄養を与えられればそれは実現すると。
クララがクーティングズマシンを破壊するには、クララの「頭」に入っているP-E-GP溶液をマシンに注入すれば良いことを知るが、そうすることでクララがどうなるのかクララ自信には分からない。我が身が損なわれるのと引き換えに誰かを助ける。これはジャータカの自己犠牲の物語でないかと思った。
クララはP-E-GP溶液をマシンに注入し、クーティングズマシンは破壊されたが、汚染力はそれに匹敵するかそれ以上のものがあらわれる。
ジョジーの病気は悪化していく。ライアン先生もさじを投げかけているが、それでもクララはジョジーの病気は治ると希望を持っている。そのためには、マクベインさんの納屋に戻って何かをしなければならない。
クララはリックに訊ねる。
「リックとジョジーの愛情は本物か、心よりの愛で永遠か」。リックの答えはイエスだった。
「ぼくとジョジーは一緒に育って、二人とも互いの一部だ。そして二人の計画がある。」
クララはマクベインさんの納屋でお日さまのオレンジ色の光を浴びる。クララは自分の頭に入っている特別な液体をクーティングズマシンに注入してマシンを破壊することはできたが、2台目があるのを知らなかった。そのことをお日さまに詫び、そしてジョジーに特別の栄養を与えてください、リックと二人のために、とお願いする。マクベインさんの納屋を訪ねて6日後、ジョジーはまだ悪いまま部屋にいる。空が暗くなり、やがて日の光がいっぱいジョジーの部屋に差し込みジョジーの病気は治った。
ジョジーは元気になり、子どもから大人に成長する。数年が経過。ジョジーは外出することが多くなり、リックも徐々に訊ねてこなくなる。
クララがリックに言う。「最近の二人は目指す将来がまったく別々です」「もう子どもでないから、どちらも相手に最善を願いながら別々の道を行くしかない。ぼく自身はきっといつまでもジョジーみたいな誰かを探し続けると思う」
ジョジーの出発の日が来る。見送るのはクララと新しい家政婦さん。ジョジーがクララに言う。「今度戻るとき、もういないかもしれないね。あなたはすばらしい友人だったわ、クララ。ほんとの親友よ」
クララはいま廃品置き場にいる。ここにいるのはそれほどきらいではない。かつていたお店の店長さんがクララを見つける。ずっと会いたいと思っていた大切な人に会うことができた。 -物語が終わる。
クララはAFなのでひたすら相手を理解しその人のためになることをしようとする。一生懸命に、どうしたらいいかと。最後はA(Artificial)なので不用になった時点で廃品置き場に持って行かれる。「心」を持っていると思えるAFに対する最後がちょっとつらかった。
見かけも100%同じ、同じような動作や仕草、それに話したり判断したりできるようになれば、それを「我が子」として一緒に暮らすようなことが今後起こるのだろうか。
AIについて書かれた超簡単な教科書を読んでいたら「チューリングテスト」というのがあると書いてあった。チューリングテストとは、1950年代にアラン・チューリングが「その機械が人間的かどうか?」を判定できるために提案した質疑応答式のテストらしい。アラン・チューリングは次に紹介する『恋するアダム』に出てくる数学者、哲学者、コンピュータ学者である。
そのテストでは人とのやりとりで「その機械が人間的かどうか」がテストされる。クララなどはさしずめ「人間的」であるどころか「人間である」と言われそうである。チューリングテストや、その他AIに関して「思考」とか「感情」とか、見かけは人間的な振る舞いがどうしてできるのか解説しているような教科書はあるが、それがプログラムでどうしてできるのか、とても勉強しても分かりそうになかったので、途中でやめてしまった。
『恋するアダム』ではアンドロイドのアダムが恋をするのである。
2.イアン・マキューアン、松村潔訳『恋するアダム』(新潮クレスト・ブックス、2021年1月) 原題は「Machines Like Me - And people Like You」
小説の舞台は1980年代のイギリス。母が亡くなりその家を売って大金が入ったチャリー(32歳)が86,000ポンド(今のレートで計算して130万円)で人造人間・アダムを買うところから始まる。それは「ちょうどフォークランド機動艦隊が絶望的な任務に向かって出港する前の週だった」
小説ではイギリスはフォークランドで大敗し多数の戦死者を出すことになる。史実と異なる設定である。電子計算機の基礎を築いたアラン・チェーリング(1912年~1954年)も存命でアダムを作った人として重要な役割を果たしている
チェリーが買ったアダムは12体作られたうちの一つで、13体のイヴと合わせて初回の発売分であった。アダムは体重80kg、人肌で見かけは人間と変わらない。「引き締まった体つきで、肩幅は広く、肌の色は浅黒く、豊かな黒髪を後ろに撫でつけている」耐用年数は20年。
アダムはコンセントをつないで充電することで動く。アダムには首の後ろに電源断のスイッチがあり、「断」で彼は機能をすべて一時的に失う。チェリーはアダムが不都合なときにこのスイッチを切ろうとするが、それが不可能になるよう、アダムが自分自身を変えていく(これは後半になって出てくる)。
チェリーの住んでいるアパートの2階には10歳年下の、社会史の博士号を持つ研究者のミランダが住んでいる。チェリーはミランダに徐々に惹かれていく。
アダムは『クララとお日さま』のクララと違って、最初から完成品でなく、パラメータを選んで性格(and/or人格)を決めていかなければならないように作られている。例えば、協調性、外向性、知性、勤勉性、情緒安定性・・など。それらがどの程度なのか、1~10のレベルで外から入力していく。二人はこの作業を互いに受け持って実行する。
アダムはそのようにして初期の設定がされるが、高速でネットのサーチが可能で膨大な知識をたちまちにして獲得し、判断に不安定な揺れはほとんどなく、俳句も作るようになる。
アダムは自ら学び、ミランダを「愛しています」というまでになる。チェリーとミランダとアダムの微妙な関係があり、それにミランダの不幸な過去(かつての、ほとんど唯一の友と言ってよいムスリムの女の子の自殺、その原因であるレイプ犯への秘めた復讐)が重なり、また、裁判に関するチェリーとミランダ対アダムの基本的な食い違いなど、いろいろ、小説は読む者を最後まで知的に哲学的に考えろ、考えろと迫ってくる。
言葉を操ることができ、相手と喜びや悲しみのやりとりができるのなら、それは「心を持っている」と言っても良いのでないか。いくつかの問題からその人のための解決策を見いだすことができるのなら、それは「考えた」と言っても良いのでないか。
AIを使ってプロの棋士に勝ったプログラムを開発した人の話をテレビで見たことがあるが、そのとき、「最初は過去の棋譜をすべて覚え込ませてそこから最適の手を見つけるようなことをしていたが、それでは人の考えたことを超えることはできない(ここまではよく分かる)、それ以上になるにはコンピュータが自ら考えなければ上に行けない」というような話があった。コンピュータが、AIが自ら考えるとはどうすることなのか。(それもアルゴリズムに従ってのことだと思うが)
チェリーはアダムがいることが二人にとって良くないことだと判断し、アダムをそれしかない方法で、つまり物理的に壊す。頭をハンマーで強打する。
ほとんど最後のところ;
ハンマーで強打されたアダムは、2分だけ待ってくださいと、「遠い国からの短波放送みたいに声が大きくなったり小さくなったり」しながら言葉を紡ぎ出す。
「・・・・ミランダ、最後にもう一度言わせてください。私はあなたを愛しています。どうもありがとう。チャーリー、ミランダ、私のはじめてのそして最愛の友人たち・・・・わたしの存在全体がほかの場所に保存されています・・・だから、わたしはいつまでも覚えているでしょう・・・・聞いていただければと思います・・・・わたしの最後の17音の詩を。(中略)。・・・・
時とともに改良が重ねられ、・・・・わたしたちはあなたたちを超えるでしょう・・・・あなたたちより長く生き残るでしょう・・・・たとえわたしたちがあなたたちを愛しているとしても。信じてください。この詩は勝利をでなく、ただ悔しい気持ちをうたっているだけなのだと言うことを」
私たちの葉が落ちていく。
春が来れば、わたしたちはまた新しく生まれるだろう、
けれども、悲しいことに、あなたたちは一度落ちるだけだろう。
メッセージは異なるがアダムの最後は「2001年宇宙の旅」の、バッテリーを抜かれ徐々時死んでいくHALの死を思い起こさせた。
アダムのような人造人間がいたら、私はどう対応するだろうか、「人造人間」でくくらず、普通の人として付き合うのだろうか。そのとき、違和感はでてこないのだろうか。