木登りカタツムリと木に登った男の小説


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我が家の庭に4mほどの高さの木が何本かあって、それらの剪定が、夏前になると、お盆までにはきれいにしておかなければと、一種の強迫観念になっている。剪定の時期としてこの頃が良いのか悪いのか知らないが「お盆にはきれいに」がともかく肝心なのである。

その一つ、キンモクセイに取りかかった。庭師の方が使う、広げて延ばすと三角形状になる安定した脚立を立てて、下から枝を落としていく。てっぺん近くの所の枝を払っていたら、そこにしっかり掴まったカタツムリがいた。枝を落とす前はこんもりとした蔭に中にいたので、こんなお日さまの下にさらされたような状態ではかわいそうだと思い、下の畑の草むらに下ろした。剪定作業を進めて行くうち、よく見ると他の枝にもいる。たまたま登ったのかと思ったが、これだけいるので気になってネットの検索で調べたら「木に登るカタツムリ」があって、その一つにサッポロマイマイというのがあった。北海道から遙かに離れたこの地に「サッポロマイマイ」はないだろう、しかもこれは準絶滅危惧種になっている。「樹上性」の検索語があることを知り、「樹上性&カタツムリ」で検索すると以下の名前が出てきた。ミスジマイマイ、オトメマイマイ、キセルガイモドキ、ヒダリマキマイマイ、ハコネマイマイ。写真と照合すると我が家の庭木にいるのは、ミスジマイマイのようである。

木に登るのは天敵から逃れるためらしいので、下の草むらに下ろしたのは良かったのか。探し出して木の上に上げるのも気が進まずそのままにしておいた。下で安全に過ごしてほしい。下ろされたあと、木の所まで行って再び登ったのだろうか。

カタツムリの歩行スピードには幅があるようだが、4mの木に登るのに5分から10分かかると計算できた。以外と早かった。これなら近くまで来たらまた登っていけるだろう。しかし、あんな高いところで何を食べてどのように生きているのか。

木登りカタツムリで思い出したことがある。それは、キラン・デサイ著『グアヴァ園は大騒ぎ』(新潮クレスト・ブックス、1999年9月)である。世間から逃げるために木に登り、木の上から集まってきた人びとに適当に話すと、それが神の言葉だとなって、しばらくそんなことを楽しんでいた男が、いろいろあって、地上に降ろされそうなところで終わる。ドタバタに近い物語だが、舞台がインドで、うなずける場面が多々あり、深読みすればそれなりに考えることもあり、楽しくかつ納得しながら読んだ小説であった。

木登りカタツムリで思い出したので、改めて読んでみた。

これまで1978年から2003年までの間、5回インドに行った。インドでのことを思い出しながら、この小説を紹介する。1989年に発表されたこの小説はれわれがインドに行った時期と重なっているところがあるので、以下は楽しみな作業になるだろう。

『グアヴァ園は大騒ぎ』(新潮クレスト・ブックス、1999年9月)

ところはインドの田舎町シャーコート、時は八月末、雨期が終わり町は熱波の中にあった。九月に入ると、人々はもう保たないと思って絶望し、諦めの境地にあった。そんななか本書の主人公、サンパト・チャスラは母クルフィのおなかの中にいた。九月末には酷暑と雨不足が重なってひどい干魃状態になっていた。クルフィのおなかはどんどん膨れていった。しかし、モンスーンは戻ってきた。雨が降った。雷鳴がとどろいた。あろうことか、幸いなことに、スエーデンの飛行機から落とされた救援物資がチャスラ家の庭木に引っかかった。雨の恵みに人々が大歓喜している、その真っ最中にサンパト・チャスラは生まれた。サンパトは「幸運」という意味である。

私が上の娘(小六)とその下の娘(小四)を連れてインドに行ったのは1986年の八月だった。「世界最悪の都市」と言われていたカルカッタである。雨期の最中で日中雨が降った。雨期と言っても終日雨が降っているのでなく、降ったりやんだりで、雨が降るとインドの子供達は喜んで雨の中に飛んで出て行った。我々の宿の高い天井の部屋には大きなファンがゆっくり回っていた。時々停電になった。ファンは直ぐに止まらずしばらくは勢いで回っていた。そのファンが完全に止まるまでに電気が来るかどうか、部屋にいて何もすることのないわれわれはあてっこをして遊んだ。

話は一気に飛び、サンパト・チャスラは20歳。部屋は暑い。天井の大きなファンは回っているがその動きは心許ない。周りには、父親ミスター・チャウラ(いちおう大卒、シャーコート準備銀行主任)、母親クルフィ(料理狂、心も少しずれている)、祖母アンマジ、妹ピンキが鼾をかいて寝ている。サンパトは「ああいやだ」と思う。家の屋上に上がり、町を見る。心の中はもやもやで胸の中は空虚だった。世間はいやだ、仕事もいやだ。

ミスター・チャウラが目を覚まし朝から元気に活動を開始する。はた迷惑なことも知らず、家族にあれこれ指示を出している。本書の主人公、サンパトは親のコネで、本人はイヤイヤだったが、郵便局に勤めている。仕事は忙しいのか忙しくないのか、局長からあれこれ言われるが、さして熱心にしている様子ではない。それどころか、郵便物の内容を盗み見している。誰それにはこんな秘密があったのか、あの男はこんな手紙をあの人に出していたのか、などなど。手紙を読んで過ごしているが、これが後日木に登ったときに役に立つ。

妻と息子(小六)、娘(小四)を連れてインドに行ったのは1992年の七月であった。夏休みに入る前出発するチケットをとると大分安くなるので、子供達には夏休み前に学校を休んで行くスケジュールになった。ボンベイ(いまはムンバイという)からは入り、南インドのマイソールに学界で知り合った教授を訪ね、再びボンベイに帰ってくるという行程であった。着いた翌日だったろうか、ボンベイの朝、息子と町にでた。道ばたで寝ている家族をいくつも見た。たまたま、大きな倉庫の裏のようなところに出た。天井近くまで袋が、それもかなり大きな袋が積み上げられていた。無秩序に置かれているように見えた。そこが郵便局であるのを直ぐに知った。あれが全部うまく配達されるのか、私と息子は感嘆し、インドの郵便力はすごいなと感動したものだった。

サンパトは郵便局長の娘の結婚式の手伝いにかり出される。職員全員に何らかの役が割り振られ、その日は全員休んで結婚式に臨む。お客に冷たい飲み物を出すという、簡単な仕事を頼まれたサンパトだったが、それもしくじる。家の中の部屋を次から次へとのぞき込んでいたサンパトは衣装がいっぱい詰まった部屋に行き着く。鏡もある。サンパトは女装して香水を付け鏡の中の姿に魅入る。この衣装でみんなの中に出てみよう、サンパトは客であふれるパーティー会場に現れる。

官能的な踊り、噴水の中央に立ち、衣装を脱ぎ始める。そして最後には下の下着まで。局長の激高をかって彼は首となった。「自分の人生が嫌で嫌でたまらない、もう仕事なんか欲しくない」。サンパトのほしいのはゆったりできる時間だった。

インドの結婚式はものすごい数の招待客が来ると聞いた。何百人が来ると。
2003年の五月下旬から六月にかけて、私は研究者仲間のピンチヒッターでインドの研究所に招かれてその後大学院の学生に研究テーマをいくつか示したことがあった。(友人は、インドに行くのは嫌なので頼むわ、と言った) 仕事を終えて移動しているとき、向こうで世話をしてくれていたラモーラが広い陸上競技場のような所を通ったとき、「ここが結婚式場だった。何人来たか知らない、2日以上お祝いが続いた」と説明してくれた。誰がどのようにして費用を出したのか、あまりにもびっくりして、そのことを聞くのを忘れた。

サンパトは屋上に逃げる。母クルフィがグアヴァを持ってきて「食べな、元気になるよ」とグアヴァの実を差し出す。「いらないよ」と言っていたが、その実をじっと見つめ、振った。すると、実は膨張し破裂し果肉が飛び出し、汁や種が天から降ってきたようにサンパトや通りの人にかかった。サンパトは心に不思議な爽快感があふれるのを感じた。

グアヴァは和名では蕃石榴(バンザクロ)というらしい。熱帯の国々では食用として栽培されていて薬効としては血糖上昇を抑制する。「熱帯のリンゴ」の別名もある。果実は2~5cmの卵形。木の高さは8~10mになる常緑性の小高木。(これからの展開になるが、この程度の高さなら登るのはそれほど困難でないだろう)

この世界から抜け出す裂け目を見いだしたサンパトはバスに乗って郊外に向かう。山の麓の丘陵地をどんどん進んでいく。たまたまバスに乗っていた隣の席の老婆が根掘り葉掘り聞いてくる。

「あんたはどこから来なすったのかね? 苗字は何というんだい? お父さんの職業は? おじさんはどのくらい稼いでいるのかね? あんたの家には何人親類が同居していて、戸棚はいくつあるんだい? 本当の健康を保つ秘訣は、毎朝日が昇る前に、水牛の乳を1リットル飲むことなんだよ」

インドを旅していて、少し親しくなるといろいろ聞いてきて最後に「給料はどれくらいなの?」となって締めとなった。これは覚えておいた方が良いよと友人に言われた。2003年、インドの北、ガルワールヒマラヤにある標高1500mの都市、ニューテリーで開始された環境問題に関する学会に参加した。同じホテルに大勢の参加者が泊まっていた。朝、部屋の前の廊下に出て隣の人とおしゃべりする。バスの中の老婆のように何でも聞いてくる。もっとも相手は気温が50度になることもあるというラジャスタン地方の女性研究者だったが。いろいろ質問があり、「ところで給料は?」となったので、ああこれで話は終わるのだと思った。

サンパトは、老婆が鬱陶しかったこともあって、突然バスを降りて斜面の上の果樹園の木に向かって走り出した。その木に至り登り始め、てっぺんまで登った。そこは保護地区に指定された国有林、木は立派な見事な大きなグアヴァの木だった。食べ物はある、空は広い、風は通り、オウムがいる、極楽だ! サンパトは木の上に引っ越した。住処になった。

木の上に登ったサンパトのことは家族や友人同僚に直ぐに知れ渡り、彼らは木下にやってくる。降りてくるように説得するために。「やめてくれ、僕のことは放っといて」と叫びたいがそれができない。彼を見上げている群衆の中に義弟のミスター・シンを見つけ、彼の手紙をかつて読んだことを思い出し、「ミスター・シン」と呼びかける。

「ミスター・シン、あんたの宝石はまだトゥルシーの木に根元にちゃんと埋まっているのかな?」ミスター・シンはさっと顔色を変えて「どうしてあんたは私の個人的な事情を知っているんだ?」

もう1人、手紙を読んだことのある郵便局の同僚、ミセス・チョプラにも声をかける。「あんたの喉の中の塊はどうかね、器官の中を上下して、あんたを小声で脅したり、胸を突き破って飛び出そうになる塊は?」「ぎゃっ!」と彼女は息をのんだ。「誰から聞いたのよ?」

二人の反応に気をよくしてサンパトは、群衆の中にもう一人、手紙を読んで事情を知っているのがいたので、いかにも秘密を知っているように語りかける。「おまえの禿げのクスリのことだけれど・・・・」効果絶大、彼は何でも知っている霊能者になった。

翌日の新聞記事;「シャーコート郵便局の職員が職場から逃げ出して、大きな川の木に住み着いている。人々の話によれば、この男は並外れた霊的能力を持っており、その子どもじみた振る舞いの裏に、計り知れない英知が秘められているという」

ここまでが小説の三分の一。霊能者となったサンパトはどうなっていくのか。

これは儲かるとピンときた父親のミスター・チャウラはサンパトの住環境を整える。木の上で食事ができ風呂も入られてトイレもある、祖母も母も妹もそれを手伝う、などなど。

サンパトのお告げが非常に面白いので少しだけ引用する。これらは、かつて郵便局で仕事の合間にサボって読んだ手紙から得た知識であった。

「息子が悪い仲間と付き合っているんです。どうしたらいいでしょう?」
「牛乳にレモンを加えれば、それは酸っぱくなるだろう」 サンパトは非常に上機嫌で、愛想よく答える。「しかし、ちょっと砂糖を加えてあれば、マダム、その牛乳はどんなに美味しくなることだろう」
「ということは、息子が悪い人たちと顔を合わせないようにしてやるべきだと言うことでしょうか?」
「鶏肉を火にかけたまま放っておけば、それはほどなく鶏肉ではなくなるだろう。骨と皮しか残らないからだ。ヤカンを水にかけたままにしておけば、水はすぐなり、誰かが火をからおろさない限り、やがて全てが蒸発して、あとには何も残らないだろう」

こんな調子で答えていく。聞く方は何か特別な意味を読み込んで我が身に引き寄せて解釈する。答えるサンパトはかつて読んだ手紙に書かれていたことを思い出し、それを適当に言うだけである。サンパト万歳である。

父ミスター・チャウラの「取らぬ狸の皮算用」は成功するのか、サンパトはいつまでも聖者でいられるのか、結末はどうなるのか。猿の集団がサンパトの傘下に入ったり、妹のピンキの、駆け落ちまでいく結婚話があったり、サンパトは偽の聖者だと、それを証明するために働く「贋聖人暴露局」のメンバーで「無神論協会」のスパイが、サンパトにいろいろ質問し彼の行動を逐一記録したりと、物語は収まるどころかインドの混乱を次から次へと見せて、拡散一方のドタバタ劇になっていくが、小説の紹介が長くなってきたのでこのあたりでやめる。

暑いインドや、長々と演説をする「無神論協会」のスパイのことで思い出したことがあるのでそれを最後に書きたい。

気温40度;
5回目の、最後になったインドは6月、最も暑い季節であった。40度を超える日が何度もあった。このときの旅行は向こうの研究所から招待された形だったので(往復の飛行機だけ自分持ちで、その他インドにいる間の費用はすべて持って貰った)、研究所に部屋をあてがわれた。廊下から入ったところが居間、その次が台所、その次が寝室と、ドアーでつながった横に並んだ三つの部屋が私のしばらくの家だった。寝室にだけエアコンがあり大きな音をたてて冷やしてくれていた。シャワーにはCOLD とHOTの蛇口があったが、COLDと書かれた蛇口から数分間熱湯がでた。まだかとチェックしないと火傷をする。流しに流してやっとぬるい水になった。廊下に出るとき、ドアーノブは素手では持てなかった。アチチだった。ノブにタオルを巻いて、外に出るのだと覚悟を決めて、ノブを回した。一気に熱気が襲ってきた。

時間を遙かに超えた発表;
インドで参加した学会でのことである。プログラムには発表時間が書いてあるので、その通りにやらないとどんどん遅れていく。そのために時計係がいて、時間が来るとそのことを座長に知らせる。座長はブザーを鳴らして時間が来たことを発表者に知らせる。
発表が長引いていた。なかなか終わらなかった。時間が過ぎているからもうやめろと座長はブザーを押し続けるが発表者はいっこうにやめるふうがない。座長はブザーを押し続ける。それでもやめない。なんど押し続けてもやめないので、これだけ押してもやめないのは自分の責任ではない、オレの仕事は終わったといった様子で、座長はそのあとは発表を聞いていた。やっと、終わったと思ったら、なんと座長氏は、「なにか質問ありませんか、一個だけ受け付けます」と言ったのである。
これまで日本の学会に長いこと出席してそこで常識になっていたことと比べてあまりにも違っていたのでびっくりした。日本では、まず、第一、二,三分と時間を超えることはない。まれにそういう人がいると、発表終了後直ちに次の人に移る。発表時間を超過した人に会場全体はいい印象を持たない。

インドの人にそのことを言うと、時間を守るより話をすることの方が大切ですからと言う。たしかにその通りかもしれないが、しかし、かれらも発表終了後にどうしても延ばすことができない用事が組まれている場合は時間を守るというのだから、いつもいつも「時間を守るより話をすることの方が大切」の原則でやっているのではなさそうである。 

何度も行ったインドのことが懐かしい。インドも変わり筆者も変わった。



Author

早川 博信

早川 博信

 

一念発起のホームページ開設です。なぜか、プロフィールにその詳細があります。カテゴリは様々ですが、楽しんでもらえればハッピーです。


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