2019年10月26日:知井坂トレイルを歩く
おおい町観光協会が一般の人を募集して山歩きを案内する事業が一昨年から始まり、Hはそのガイド役ということで関わってきた。最初の年は堀越峠から知井坂、そして八ヶ峰へ、だった。昨年は染谷の八ヶ峰旅行村から八ヶ峰に登り五波峠を経由して中山谷山まで行った。今年は名田庄の堂本から八ヶ峰に登り知井坂を京都側に下りるコースになった。これは数ある鯖街道の内の一つ、小浜街道と呼ばれているルートである。
「かつての鯖街道を歩く 堂本登山口~知井坂~南丹市知見トレイル」と見出しの付いた案内チラシには「募集人数30名」、そして小さく(最小催行人数15名)と書かれていた。開催数日前に協会に聞くと、「まだ8名です、もう増えそうにありません」という返事だった。今年はないのかと思っていたら、「人数が少なくとも実施しましょう」と連絡があり実施することとなった。
前日、体調がすぐれないので不参加にしますという方が一名あり、結局7人の参加者となった。それにスタッフ4名である。八ヶ峰旅行村に8時集合。7名の内、父子の親子連れが二組、最年長は83歳の方であった。最初、旅行村のM本さんから知井坂のいわれを聞いた。Hが簡単にコースの説明、「ゆっくり行きましょう、楽しんで」と話す。
登山口の堂本まで車で送ってもらい、8時半からから歩き始める。知井坂から美山町(今は南丹市)の知見に下りるこのコースは鯖街道の一つで「小浜街道」と呼ばれている。かつての生活道路なので登山の目的に作られた道と違い、傾斜は緩やかで蛇行していて、とても歩きやすい。古道によくあるように、古い道が深くえぐられて歩き難くなると、そのそばに新しい道が自然にできる(もちろん人々が歩くからできるのであるが)。
歩き始めて2時間、作業道の林道にでる。最初の記念撮影をする。
舗装した道をほんのしばらく歩き15分ほどで「こもれび広場」に着く。ここから直接八ヶ峰の頂上に至る道があるが、すこし頂上の西側を大回りをして、あるものを見てもらいそこから頂に立つ計画である。最初の鉄塔まで急な登りをみんな頑張って登る。11時になる。遙か彼方に常神半島が見える。日本海の水がここより高く見えるのは不思議な気がする。
(右手奥に薄ぼんやりと見えるのが常神半島の先端部)
見てほしかった「手水鉢」に着く。これまで何度も来たが今日ほどきれいな状態になっているのは初めてである。それもそのはず、数日前に八ヶ峰旅行村のM本さんとO花さんが埋まっていた土を掘り出し、たわしで磨いてくれたからである。いわゆる「before」「after」を見るとその苦労が偲ばれる。この手水鉢は刻まれている銘文から1802年(享和2年)に設置されたことが分かる。今から217年前、江戸時代後期である。それにしても当時と変わらず水道(みずみち)があるのがすごい。
(掘り出す前の手水鉢、土に埋もれていてうまく見えない。これは数年前の写真)
(掘り出しあと、今でも立派に水をためている。イベントの前、掘り出された)
「手水鉢」から少しトラバース気味に行き、「頂上まで0.5km」の看板のところで左に大きく曲がり、頂上手前のけっこう厳しい坂道を直登して頂上に12時に着いた。昼食をとる。
すぐあと、同じ道を別の5人の団体があがってきて、聞くと美山の知見から来たという。われわれがこれから下りるところである。そのリーダーが日本山岳会京都・滋賀支部の大槻雅弘さんという方で、われわれ福井山岳会の会長の本も福井山岳会が出した『県境をゆく』も持っていると言っておられた。
その方は「一等三角点研究会会長」で、私が「先週、夜叉ヶ池に行きその先の・・」と言い出すと、「三周ヶ岳」ですね、と。さすが一等三角点研究会会長だと感心した。大槻さんから2019年10月13日付きの京都新聞をもらい、そこには「丹波の山々 10 八ヶ峰」と題するその方の書かれた記事があり、知井坂峠の石塔は至徳2年(1385年)、知井坂途中の「南無妙法蓮華経」の石碑は寛政11年(1799年)とある。
昼食を済ませ知井坂に向けて下る。坂まで来て、すぐ上にある石塔と地蔵を見る。この石塔が1385年のものらしい。下山してからネットで「知井坂、石塔」で検索すると下記のような記事が出てきた。
「この石塔は、独立したものではなく、宝篋印塔の頂部の相輪ということである。」https://kitayamawa.exblog.jp/5732833/
「宝篋印塔の頂部の相輪」がなんのことか分からなかったので、これも調べてみると、
宝篋印塔とは、「宝篋印経にある陀羅尼を書いて納めた塔。日本ではふつう石塔婆の形式の名称とし、方形の石を、下から基壇・基礎・塔身・笠・相輪と積み上げ、笠の四隅に飾りの突起があるものをいう。のちには供養塔・墓碑塔として建てられた。」とある。
https://kotobank.jp/word/%E5%AE%9D%E7%AF%8B%E5%8D%B0%E5%A1%94-131881
そこには図も出ていて下記のようになっている。
相輪とは石塔全体の頭頂部になるから、知井坂にある石塔は一部だけ運ばれてきたことになるのか、それとも宝篋印塔が最初はあったけれど次第に崩れて頭頂部だけ残ったのか。いずれにしても古いものが残っている。
下が、知井坂途中の「南無妙法蓮華経」の石碑(寛政11年(1799年))
知井坂(峠)からの下りも昔の生活道路で歩きやすい。登りのときと同様、古い道がえぐれて深くなり、歩きにくくなったその道のそばに並行して比較的平坦な歩きやすい道ができている。小学1年生の男の子(父子組で参加)がトップで下りていく。旧美山町知見まで1時間足らずで下りた。
八ヶ峰旅行村から回してもらった車に乗って五波峠を越えて出発地点の旅行村に帰った。お風呂に入れてもらい本日のハイキングは終了した。残念ながら紅葉の季節には今少し早かった。