昭和42年4月から昭和44年3月まで、名古屋大学の修士課程にいた。名古屋大学理学部附属水質科学研究施設、通称、水研と呼ばれていた。水質科学と言う名前からなにか飲み水を調べるような印象があるかもしれないが、そうではなくて、水が関わっている地球上の現象が研究対象で、雲物理、雪氷、湖や海の生物的ないし化学的研究など、野外に出て行うことが多かった。「水研」のその後は大学のホームページから引用すると下記の通りである。
1957年(昭和32年)4月 名古屋大学理学部附属水質科学研究施設として設立。
1973年(昭和48年)9月 名古屋大学水圏科学研究所。
1993年(平成5年)4月 名古屋大学大気水圏科学研究所。
2001年(平成13年)4月 地球水循環研究センター。
2010年(平成22年)4月 文部科学省から共同利用・共同研究拠点として認定。
堀井晴雄さんとは水研で2年間一緒だった。
堀井さんの訃報は5月1日、大森さんから届いた。本当にびっくりした。今年(2019年)の6月、松江で水研の同窓会を開くことになっていて私は担当を仰せつかっていた。堀井さんからは、5月に入院し、そのときの様子を見て行くか行かないか決める、みんなに会えるのを楽しみにしているとメールが来ていた。私は時々みんなに旅の概要や旅館のことを知らせていた。堀井さんは、いつもすぐに、それも長くて楽しい返信をくれるのに、しばらく連絡が途絶えていたので、今入院中でメールなど出せない状態なのかと思っていたが、その矢先の大森さんからの訃報であった。
名古屋で一緒だったのはもう50年以上昔である。その間、会ったのは数回だったのでないか。水研のほかの同窓生と違って私は2年で大学院を止めてさっさと福井に帰ったし、どういうわけか小山研だけは途中から理学部の新館に移り、昔のままのあの木造の旧理学部(の一部)にあったほかの研究室のみんなとも学校時代余り交流のないまま2年間を過ごしてしまったのである。しかし、「アクワ」なる文芸雑誌(といって良いと思う)も作ったし、最後の伊豆の修学旅行も一緒に行った。堀井さんのことは思い出す限りで何か書いておきたい。
堀井さんのいた研究室は「磯野研」であった。教授が磯野先生、助教授が駒林先生、助手に武田さんがおられた。木造立ての水研の外だったと思う、駒林先生が四角い箱を示されて、「この窓から覗いてみてください、中に火星の雪が降っています」と言われた。なんだかよく分からなかったが中を覗くと上から何かが落ちてきているようにも見えた。武田さんにはどこか学外の町の中だったのか、たまたま会ったときに、何をしておられるのですかと訊くと「ケイサンの雪を降らせています」と答えられた。化学出身の私は「ケイサン」を「ケイ酸」だと思い、どういうことなのか、これもよく分からなかった。「ケイサン」は「計算」であることをあとで知った。堀井さんの指導教官が誰だったのか、離れたところにいた私は知らなかったが、あるとき、もう修士の終了間際でなかったかと思うが、彼に何をしているのか訊くと、ラジオゾンデを飛ばし上空の水蒸気を測定して、ゾンデは回収することになっている、この測定すること自体も回収することもとても難しいことなのでと、ちょっと困ったように説明してくれた。4年前の2015年、われわれ同窓生の埼玉旅行のあと、堀井さんの提案で「文集」を作ったが、その中で彼は自分の生涯について詳細に書いていて、このラジオゾンデのことにも触れている。今になって、当時の最先端の研究であることを知った。
修士の終了時に修学旅行に加え、卒業アルバムまで作り、教授の先生方に寄せ書きをもらいに行ったが、そのとき樋口先生から「おまえ等のような少女趣味は・・」、なんと言われるのか緊張していたら「・・大好きだ」と褒めていただいた。私は自分に言われたつもりだったが、堀井さんと奥平さんも「少女趣味」的であったようだ。もちろん、「少女趣味」とは、今で言うロリコンのことではなく、あの当時、いい大人に近いのにたわいもないこと(一緒に旅行するとか、文集を出すとか)に精を出す、世間から離れようとする傾向にあるものをさしていっていたと思う。堀井さんはマンキチと呼ばれていたが、その名の由来は渡辺さんだったのか、世間から離れて暮らすことを望むということからいえば、マンキチは良い名前ではないか。
これもどこでいつだったか定かでないが、堀井さんがコンピューター関係の会社に就職してそのときの仕事のことを訊ねたときに、犯罪がらみである日の零時零分以降、どこのATM で金を引き出したか分かるようにソフトを変更せよと言われ、時間が限られた仕事であったので大変だったといっていた。
2015年の埼玉旅行のあとにできた「文集」では「古希を超えて -未完成交響曲」のタイトルで一生を振り返って長いとても感動的な文を書かれている。改めて読んで、堀井さんの幼い頃から晩年までのことを彼と一緒に追体験したような気になったが、そのなかに、子どもの頃親から新聞を踏んではいけない、本はまたぐなと教えられたとあり、ああ同じことを自分も言われていたことを思い出し、同じ時代を生きたのだとつくづく思った。
また、別のところでは、両親のこと、と題して「苦労に苦労を重ね、育ててくれ大学院まで進めてくれたのに、就職してしまったこと、その後も大して親孝行しなかったこと、強い慙愧の念にかられる」と書かれている。ここ数年のメールのやりとりの中でも、数学を勉強しているとか、「死」のことに関してこれまでの著名な人の一生を研究するとか、いろいろあった。また「古希を超えて -未完成交響曲」の中で、会社生活に触れて、「堀井さんは会社がふさわしくない人だ」と言われたとかある。彼は学問の人だったのだと思う。
最後にあったのは2015年7月8日、長谷美さんが企画した熊谷での同窓会であった。このとき、喫茶店で堀井さん、佐竹さん、長谷美さん、奥平さん、小生の5人で、堀井さんが持参したPC(持ってきたのは長谷美さんだったのか、定かでない)で写真を見ながら孫のことや花のことを聞いた。彼は夜の宴会は無理というので駅まで送って行き別れた。実に久しぶりに会ったのだが、そして白いあごひげや白い髪の毛で見かけは年老いていたが、そこには確かにある時期一緒に過ごしたころ彼の若い姿があった。目の前の好々爺然とした姿と水研の頃のちょっとはにかんでいるような20代の姿とが重なっていた。笑い声は朗らかだった。文集にあったような苦労話はなかった。花の話も孫の話もとても楽しそうだった。
この頃、親しかった人や仲の良かった人がいつの間にか亡くなって、ああもう会えないのだ、もう話ができないのだと思うことがよくある。そのうち、知っている人より知っていた人のほうが増えるのでないかと思っている。熊谷の同窓会のあとメールのやりとりが盛んになり、一気に、また親しくなったような気がしていた。その中で堀井さんが「さっきまで苦しがっていた人が突如何も感じない『物』になってしまうなんて。分からない。」と書いてきたことがあった。そのとき私は長々と返信した。それをここでもういちど書くつもりは全くない。それよりもそのような話を二人で年老いていく過程でしたかったと強く思う。