相馬市から富岡町まで -ガイド付きツアーで見た津波被災地と原発被災地-


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2019年7月12日(金)、夜8時半、名田庄の里山文化交流会館「ぶらっと」に8人が集まった。地元の勉強会「名田庄原子力基礎教室 311の会」(愛称311の会)のメンバー8人でこれから夜の高速道路をとばして福島に向かうのである。311の会の福島行きは2013年6月の飯館村訪問以来2回目である。今回は相馬市のNPO法人「野馬土」のボランティアガイドさんの案内で相馬市から富岡町までを巡ることになっている。レンタカーは10人乗りのトヨタハイエース、最初の運転手はHである。

小浜から高速に乗り若狭舞鶴自動車道から北陸自動車道へ。1時間半ほどで尼御前SAに着き、最年長のHは少々くたびれて次の人に運転を変わってもらった。10時を回っていていつもなら寝る時間なのだから、ごめんねと。新潟JCTから磐越自動車道へ入り、郡山で東北自動車道に乗り白石で下りたときは日はすっかり昇っていた。福島を通り過ぎて白石まで来たのには理由があった。

6年前、福島市に早く着きすぎて(午前4時過ぎだった)会う人との約束の時間まで4時間もあったので宮城県の津波の被災地である山元町に行って「中浜小学校」を見た。そのときとどのように変わったのか、見たくて白石で下りて山元町に向かった次第である。

少し迷走したが見覚えのある学校が向こうに見えてみんな「あれだ!」と叫び、両側が茫々たる野原になっている道を進み、「中浜小学校」に着いた。2013年のときは、これほど草は生い茂って折らず、津波で流された家の基礎が何個も何個も見えた。奥羽線の線路も放置されたままあり、駅舎の残骸もあった。それらはいまはない。学校は同じ姿であった。学校に避難して来た地元のひとは生徒とともに校舎の屋上に逃げて90名全員が助かったという。しかし、山元町全体では630余名の犠牲者だった。この学校は東日本大震災の遺構として保存される。

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山元町から福島県に戻り相馬市のNPO法人「野馬土」の事務所に行く。来る前にあらかじめ指定されていた場所だが見つけるのに苦労した。ナビはあったのだけれど、よく分からなかった。それでもなんとか約束の9時より早く着いた。今日案内していただくガイドの渡辺さんと挨拶を交わす。出発前におおよそのルートを教えてもらう。相馬市から南下して富岡町まで。午後2時過ぎになるだろうということだった。われわれの車に乗ってもらい出発する。Hは渡辺さんに説明のとき録音しても良いか訊ね許可をもらった。

右手に松川浦にかかる松川浦大橋を見て、最初に訪れたのが相馬市原釜の伝承鎮魂祈念館であった。アーチ状のあの高い橋のすぐ下まで津波が上がったと聞いた。入ったところに広いテーブルがあり、そこに沢山の写真がならべられている。「持ち主不明のお写真です」の説明札が立っている。泥の中から取り出されたのであろうそれらの写真には、結婚式、運動会、卒業式、家族旅行など楽しかった出来事が残されていた。さらに中に入りホールのようなところで津波のビデオを見た。海が車や家を乗り越えて進んでくるのを見る。襲ってくる海を見て叫んでいる人の声を聞く。2011年3月11日の大津波の現場がそこにあった。世間からどれほど津波の記憶が薄れていこうとも、ここで見たような有様に遭遇した人たちからはそのときのことは決して消えないだろう。

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次に車を止めたのは南相馬市小高区の井田川行政区の慰霊碑だった。ここに来る道の途中、太陽光発電所を何カ所も見た。

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案内をしていただいている渡辺さんの奥さんのご両親がこの地区に住んでおられてお二人とも津波の犠牲者であることを、Hは出発間際に聞いていた。海を見通せるちょっとした高台に立つ慰霊碑には24名の名前が年齢とともに刻まれている。26歳と0歳の母子の名前もあった。そばに立つお地蔵様は東北の篤志家の寄付によるということだった。

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南に下がって浪江町の復興建設中の請戸港に行く。「漁港の復旧 -相双の復興は港から」の看板には、津波以前の町の様子と港のにぎわい、お祭りなどの写真が大きく貼られている。「被災前の請戸」の説明がある写真には港に迫るようにして建っている数多くの家が写っていた。目下建設中の港を見下ろせる展望台があり、新しい波止場に新しい漁船が停留されているのを見ることができるが、ここにはまだ加工施設がないので水揚げは別の港になるとガイドの渡辺さんから聞く。

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さらに少し南にさがり浪江町の請戸小学校へ。請戸小学校の子どもたちは裏山に逃げて全員助かった。学校では常日頃から津波に備え避難訓練を繰り返し行っていたという。この日も校長先生以下先生たちの適切な誘導で学校を離れた。大平山目指して。途中、幅の広い用水がありそれ以上進めないときに6年生の子が、自分はお父さんに教えてもらった道を知っているからとその子の案内で橋を渡り無事逃げることができた。請戸小学校も津波遺構として残されることになっている。

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(二階の体育館の窓に残った津波の到達点の跡)

請戸の町を見下ろす高台に新しい霊園、「大平山霊園」がある。墓石もすべて新しかった。そこに建てられた慰霊碑の裏には下記のように書かれていた。(碑は縦書きだが、横書きにして漢数字は英数字に変えた)

「平成23 (西暦2011)年3月11日午後2時46分、福島・宮城・岩手を中心に最大震度7の地震が発生した。この地震により家屋は倒壊し、道路は寸断された。その後40分後に浪江町沿岸に津波の第一波が到達した。第二波が襲来した後、さらに高さ15メーターを超す大津波が街を襲った。住民にはこれまで大津波被災の記憶はなく、避難が遅れ大津波に驚愕し請戸・中浜・両竹・南棚塩の集落はすべて飲み込まれた。
翌12日には東京電力福島第一原子力発電所の事故により、国から避難指示が発令されたため、住民は避難を余儀なくされ、捜索や救助を断念せざるをえなかった。この地震と津波により、住民182名の尊い命が失われた。私たちは、災害は再び必ずやってくることを忘れてはならない。
ここは太古の昔から人が住み、青い海と白い砂浜を眺望できるところである。この地に、犠牲者の御霊を慰めるとともに、先人が愛した豊穣の大地と海を慈しみ、浪江町の復興を願い、この碑を建立する。
平成29年3月11日 建立者 浪江町」

高台に建つ碑からほとんど草だけの原野の向こうに請戸小学校が見えた。大平山はこのすぐ近くだと聞いた。

浪江町からさらに6号線を南に下がる。双葉町と大熊町は全部ではないがかなりの地域が依然として帰還困難区域になっている。無人の町が6号線の両側に続く。

福島第一原子力発電所の敷地は、双葉町と大熊町の境界線を中心に両方に等分に広がるようにしてあるが、中間貯蔵施設はその原発の敷地を外から両手で抱きかかえるようにしているごとく見える。面積は発電所のざっと3倍くらいはありそうか。6号線のすぐそばにある中間貯蔵工事情報センターで中間貯蔵施設の概要説明を受ける。中間貯蔵施設といっても貯蔵するのが放射能を帯びたものばかりだから、受入・分別施設、土壌貯蔵施設、仮設焼却施設、スクリーニング施設などいろいろあるようだ。

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(中間貯蔵センターのホームページから引用)

大型のトラックがセンターの横を通って出入りしていた。入り口を見ただけだったので、ずいぶんあっけない施設のように感じたが、帰ってから中間貯蔵工事情報センターのホームページを見たら施設見学を日時を指定して時々実施されているようで、全体を見るのにバスで回って1時間半かかり、「バスからの区域内見学(バスから降車しません)」と書いてあった。

6号線をさらに下がって富岡町まで来る。途中、浪江-富岡間が普通のJR常磐線のさびた線路を上から見下ろした。富岡町は桜並木が有名ところだそうで、ガイドの渡辺さんから「桜の時期ではないが見ていきますか」と言われ、車を下りる。新緑の桜の木が道の両側に伸びていた。

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富岡第二中学校の体育館が震災当時のままの状態で残されていて、体育館の窓越しに中を覗く。2011年3月11日、富岡第二中学校では卒業式が行われていたが東日本大震災が起こり、体育館は避難場所になった。今窓から覗いたそこはその当時のまま、舞台の壇上には電気ポットやパイプ椅子や段ボール、後ろのカーテン上部には町旗、日章旗、校旗の3つが下がっている。床にはブルーシートが敷かれ、救援物資と思われる段ボールが3段ないし4段積まれたのが列をなしている。8年の月日がそこで止まっていた。

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富岡町には「東京電力廃炉資料館」があり、今回のツアーの最後がここだった。福島第二原発のPR目的で作られたエネルギー館を改装したのがこの「東京電力廃炉資料館」で、きれいな施設だった。最初に見せてもらったのは福島第一の今の状況、ホールのようなところに半円状に囲むようにして縦長のスクリーンがあり、そこに今の福島第一の所々が写されていた。大きな画面で迫力があるがやはりこれは写真。現場に行きたいと思った。

中のホールでも横広の超大型画面があり、地震直後の中央制御室の混乱が映し出された。本物だと思うが、ああいう画面は自動的に記録されていたのだろうか、それとも誰かがそのときに撮ったのだろうか。訊けば良かった。

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前夜名田庄を出て朝早くから動きっぱなしだったので皆疲れ気味で後の展示物は見なかった。ガイドの渡辺さんは「展示はお詫びばかりだよ」。それでもう良いかとなって外に出た。この日の宿のいわき市の神白温泉「國元屋」に向かう。長い一日が終わった。

今回の旅行で午後になるとかなり眠くなった。前夜出発、夜行で走り続ける、というようなスタイルの旅は、どうも今回で最後になりそうな気がした。運転してくれたほかのメンバーも同じような感想だった。

福島から帰り311の会で報告会を開いた。下記はそのときの参加者の感想である。ごく一部だけだが最後に付記する。どれもHには深く納得できるものばかりである。

S;津波の避難に対してはあれほど何度も訓練して速やかに逃げることができたのに原発事故に対してはそれがなかったということはやはり誰も原発事故は起こらないと思っていたのではないか。

Nk;福島県全体で1つの、例えば反原発というような意識があるのでなくて、各自治体によってそれぞれ復興に対する思いなども違う印象を受けた。

Ng;大平山霊園の慰霊碑の裏に書かれていた文章を読むと、原発事故により助けられる人も助けに行くことができなかった無念さがよくわかる。はっきりと東電を非難しているのではないが、本当はそうであることがよくわかった。

K;中浜小学校には2013年に行き、今回また行ったが、同じだなと言う印象と変わったなと言う印象と両方があった。矛盾するようだけれど。学校は6年前と同じで周囲の様子がなんとなく違っていた。

K;あちこちに太陽光発電によるメガソーラーパネルがいっぱいあってそこでできる電気は未だに東京に送られているということを知ってショックだった。東電の廃炉資料館のエアコンや施設の豪華さやそこに雇用されている大勢の人や、何か納得いかないものがあった。

Y;長い高い防潮堤があちこちにありその内側に人の住むところがある。まるで刑務所の中にいるようだった。帰還できるようになって少しずつだが家にすんで暮らしておられるのを見たが、一個一個バラバラの家が立っているような所には私なら住めそうにない。



Author

早川 博信

早川 博信

 

一念発起のホームページ開設です。なぜか、プロフィールにその詳細があります。カテゴリは様々ですが、楽しんでもらえればハッピーです。


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