辛島ディヴィッド著『Haruki Murakamiを読んでいるときに我々が読んでいる者たち』(みすず書房、2018年9月)


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分かりにくいタイトルになっているが、「Haruki Murakamiを読んでいる」のは、翻訳で村上春樹を読んでいる外国の読者で、そのひとたち「我々」が村上春樹を読むとき、その本の、翻訳の向こうにいる訳者や編集者や出版エージェントやブックデザイナーやその他諸々のひとたちはどんなひとたちだったのか、といった謂いのタイトルである。

今や世界的な大作家になった村上春樹だが、大きく二つのステップがあった。ひとつはアメリカで読まれるきっかけになった『羊をめぐる冒険』や『風の歌を聴け』や『1973年のピンボール』などの翻訳と、そしてその後大ブレークするきっかけになった『ねじまき鳥クロニクス』の翻訳である。これら大きな二つの出来事における翻訳・編集作業は大きく異なっていた。読まれるようになるとき、大ブレークするとき、そこではどんなことが起こっているのか。これらの翻訳・編集作業に関与した様々なひとたち(30余名)との対話や村上春樹とのインタビューなどを通じて世界的作家の誕生を詳細に論じているのが本書である。 

とても面白く引用し始めるとほとんどすべて引用したくなるような本だったが、まずは章立てを示して全体像を。(1章、2章・・とはなっていないが、各章とその最初の項をあげると、以下のとおり。)

1.バーンバウム、村上春樹を発見する 1984-1988
 ボヘミアンな翻訳家(?)ができるまで
2.村上春樹、アメリカへ -Haruki Murakamiの英語圏進出を支えた名コンビ 1989-1990
 エンジンをスタートさせた編集者、エルマー・ルーク
3.新たな拠点、新たなチャレンジ 1991-1992
 プリンストンを新拠点に
4.オールアメリカンな体制作りへ 1992-1994
 新たな出版社を求めて
5.『ねじまき鳥』、世界へ羽ばたく 1993-1998
 厳格な訳者(?)ができるまで

 最初の翻訳者はアルフレッド・バーンバウム。「ボヘミアンな翻訳家(?)」とあるように、彼は今はミャンマー人の奥さんと日本に住んでいるがそれまでは一箇所に定住することなく、世界を移動するのがそれほど特別なことでなかった。自由奔放という意味では翻訳にそれが現れている。このような翻訳者と組んだのが、ハワイ生まれのアジア系アメリカ人エルマー・ルーク。二人の組み合わせが村上春樹をアメリカで読ませるようにする。 

翻訳・編集でこれほど原書が姿を変えるとは、無知を白状すれば、まったく知らなかった。本のタイトルが変わることは、日本語に訳されたものとその原書の題と見ればあああるのだとは思っていたが、もう、全部そのまま翻訳しないのは当たり前で、話は短くなるし、順序は変わるし(つまり後ろの章が前に来たり、その逆だったりを行う)内容も変わる。 。

たとえば、アメリカの読者を念頭に置いて、同時代的でアメリカ的な『羊めぐる冒険』作りのために、「日付をはじめ、1970年代と結ぶつくもの」を本文や章や節のタイトルから削除する方針を立てる。

『羊めぐる冒険』の第1章「1970/11/254」は「A Prelude」に、第2章「1978/7月」は「July,Eight Years Later」になどと、1970年代の印象を完全に消し去っている。(その他詳細なことで、ほんとうに詳しくおもしろく書かれています) 

アルフレッド・バーンバウムとエルマー・ルークの翻訳-編集コンビから、次の翻訳者と出版社となっていくのが第3章と第4章で、ここでは単に、読ませるための翻訳・編集だけでなく、広告や宣伝がいかに大きいかが論じられている。論じるというような堅いことではなく、その世界のお話として興味深く聞くことが出来る。 

日本語で三分冊になっている『ねじまき鳥クロニクス』がどのように翻訳されたか。現在よく読まれているジェイ・ルービンはバーンバウム・ルーク組コンビと比べればはるかに厳密な訳を行っているが、それでもここはこうなった、ここはこう変更したと具体的に並べられているのを見ると、翻訳・編集のすごさを感じてしまう。これらはそこの国の文化(読書文化というのか)に合わせた結果で、たとえばアメリカではこんなに長いのは誰も読まないからと短くしたり、これほど具体的なセックス描写は避けなければいけないとか、いろいろあるみたいです。(これも本書にあたって確かめてください)

これらのいわば、変更ともいえる翻訳・編集について村上春樹本人は「まあ、しかたないね」というようなことを言っているが、雑誌「ニューヨーカー」に掲載された作品(この雑誌に掲載されるようになるまでがとても大変なことらしい)については、「また、いつか元に戻したいし」とも言っている。

 『ねじまき鳥クロニクス』刊行時には翻訳されたのは14言語だったが、2002年のafter the quake(『神の子どもたちはみな踊る』英訳)刊行時には27言語、2005年のKafka on the Shore(『海辺のカフカ』)刊行時には34言語、2011年『IQ84』で50言語以上になっている。50の国を言えと言われてもすぐに出てこない。

このような状況なので、いまや、もとの作品をそのまま読んでみたいという要求もあるらしい。これからどうなっていくのか。

翻訳本のブックカバーを見ることが出来るのも本書の楽しみのひとつであった。『羊をめぐる冒険』は横向きの、押しつぶされたような、アップになった羊が中空に浮いている(本書のカバーがそれ)。『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』は大きな石がこれも中空に浮いて、真下に真っ直ぐに延びる道、その道の真ん中に一本の木。『ダンス・ダンス・ダンス』と『風の歌を聞け』は佐々木マキのイラストのまま。このようなことは珍しいらしい。『象の消滅』は、ブックデザイナーのチップ・キッドによるもので、メカニカルな目覚まし時計のスケルトンを見るような、象というよりネズミか豚を正面から見たイラストになっている。『ねじまき鳥クロニクス』もチップ・キッドによるもので、これは眼球が真ん中にあってバックは非生物的な機械仕掛けの目の全体といえばいいのか。 

村上夫人の村上陽子さんは日本ではほとんど姿を見せないが、外国では翻訳者や編集者といろいろ関わって活動されているのが分かる。翻訳者も編集者も夫人にしばしば言及している。陽子がヨーコと出てくるので、なんだか変だった。 

最後にこの本のすさまじいところを。
各章に注があり、それらはほとんどがインタビューに関する注で(ときどき書籍の引用がある程度)、著者や訳者や編集者に対する直接であったりメール・インタビューであったりするのだけれど、それらすべてに日付がうってある。「著者によるアルフレッド・バーンバウムへのインタビュー、2015年11月20日」、「著者による村上春樹へのインタビュー、2018年1月24日」、「エルマー・ルーク、村上春樹宛てファックス、1991年3月29日」など。注の数は総数で624,内訳は下記の通り。

★バーンバウム、村上春樹を発見する 1984-1988 ・・・88
★村上春樹、アメリカへ -Haruki Murakamiの英語圏進出を支えた名コンビ 1989-1990・・・181
★新たな拠点、新たなチャレンジ 1991-1992・・・96
★オールアメリカンな体制作りへ 1992-1994 ・・・202
★『ねじまき鳥』、世界へ羽ばたく 1993-1998 ・・・147
本文が356ページ、注が24ページである。

 「あとがき/おわりに」の最後を引用する。

「最後に、お礼言うなら皿洗え、と言われそうですが、週末に書斎(カフェ)に消えたり、夜中にバサッと起き出し、スカイプ会議のために階段をバタバタ駆け下りる迷惑な同居人を温かく見守り、励ましてくれた妻と息子たちに感謝します。本書の印税は、決して本やサウナ代には使わず、全て子供のお弁当代にあてますことをここに誓います。

2018年8月15日                   辛島ディヴィッド」



Author

早川 博信

早川 博信

 

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辛島ディヴィッド著『Haruki Murakamiを読んでいるときに我々が読んでいる者たち』(みすず書房、2018年9月)」への2件のフィードバック

  1. 鈴木利郎

    『Haruki Murakamiを読んでいるときに我々が読んでいる者たち』は読んでいませんが、翻訳には関心があります。
    外国文学をすらすらと読めれば、翻訳は必要なくなりそうだが、そんなわけにはいかないのが現状。
    英和辞典を見ただけでも、一つの単語に多種の意味が書かれており、
    小説においては更なる深さ広さのある意味合いがあり、
    翻訳には畏敬の念を抱いています。まして詩であれば神技です。

    翻訳本は読んでいても読み取っていない不安を感じますが、
    日本文学にしても繰り返し読むと味わいが異なってくる。
    種々の読み方があるように、
    翻訳小説に関しても複数の訳があっても差し支えないはずだ。
    複数の読み方があるように複数の訳があっても差し支えないはずと考えています。

    翻訳で近年話題になったのは
    亀山郁夫訳の「カラマーゾフの兄弟」、誤訳も指摘されていますが、最新訳で書店で平積みされている。
    私にとっては米川正夫訳がなじみに深いのですが、米川正夫訳を書店では見ることがない。
    古い訳本は、欠点もあるだろうが、新訳に駆逐されてしまうのだろうかと思います。
    なお、亀山訳は読んでいません。

    比較的最近、ハーディの著作を読もうと思い、学生の頃英語の授業で教壇に立ってくれた大沢衛先生を
    思い出し、大沢先生訳の「帰郷」を読もうと思っても、書店では見つからない。
    結局は図書館から借りて読んだわけである。
    (ネットで購入すればないわけではないのですが)
    授業で学んでいたとき、ヒースの荒地はてっきりスコットランドの風景と思っていたのが南イギリスだったのは
    全く記憶はいい加減なものです。
    古い訳本は消えてしまうのかさびしいものです。

    最近とはいっても10年以上前ですが、話題になった訳本は
    既に読まれてたと思いますが、サリンジャー作「The catcherin the rye」の
    村上春樹訳「ザ・キャッチャー・イン・ザ・ライ」白水社2003年刊です。
    既に野崎孝訳「ライ麦畑でつかまえて」1964年刊(白水社)、新書版は1984年刊があり、これと比較されたことは記憶に新しいことです。
    題名については原作が「The catcherin the rye」であることから、野崎訳より村上訳が正確といえましょうが。
    「ライ麦畑でつかまえて」も作品の中で関連があり、場違いなものとはいえないものです。
    作品中、I’d just be the catcher in the rye and all.を村上は「ライ麦畑のキャッチャー、僕はそういうものになりたいんだ。」(村上は親切に注に書いている。)
    一方、野崎は「ライ麦畑のつかまえ役、そういうものに僕はなりたいんだよ。」と訳している。
    しかし、大きな違いは野崎訳ではしゃべりまくるような文体なのに、村上訳では話す、あるいは日記のような感じかと思います。
    野崎訳に馴れ親しんだ人にとっては違和感を憶えたかと思います。

    作品が書かれ、完成し刊行したのは1951年、その時代の雰囲気を考慮にいれるか、時代を超える普遍性を考慮するかによっても変わるでしょう。
    スマホのGoogle翻訳で「The catcher in the rye」が「ライ麦畑でつかまえて」となるのには笑ってしまいます。
    マイナーなアプリでは「ライ麦の中の捕手」です。

    村上春樹の「風の歌を聴け」が芥川賞候補になった時、選評で、井上靖ら他の選者は触れていませんでしたが、
    丸谷才一は「・・アメリカ小説の影響を受けながら自分の個性を示さうとしてゐます」、
    大江健三郎は「今日のアメリカ小説をたくみに模倣した作品もあったが、・・」と書いており、
    村上春樹訳がなまなかのものではないと考えています。

    村上春樹訳は単行本に解説を書くことサリンジャーから拒否されてますので、雑誌「文学界」に解説を書き、
    そこに「・・・新訳の依頼を受けたとき、野崎氏の翻訳をそのままのかたちで残すという前提で、喜んで引き受けさせていただいた。」とある。

    サリンジャーについては高校時代には知らず、
    大学の大場先生の英語授業でサリンジャーの「A Perfect Day for Bananafish」を習ったときが、はじめてです。
    大場先生がニコチン中毒であることは憶えていますが、残念ながら下の名前は憶えていない。

    返信
    1. 早川 博信早川 博信 投稿作成者

      懐かしかった。もう50年以上前になる大学時代のことを思い出していた。しかし、情けないことに、コメントにあった大沢衛先生も大場先生もまったく何も残っていない。ニコチン中毒とか、本当によく覚えているね。
      ドイツ語の授業で、欠席した者の代わりにみんで代返をしたら次から次へと名前が呼ばれて、それらすべてが順に違う人物だったので、最後は「はい」と言えるものがいなくて、結局代返がばれたこと、覚えていますか。(本筋からそれてごめん)
      金沢大学は、今や、どこにあったのか、わからない状態になっている。お城に入っても、ここに大学があったと書いてない。入った当初は世界で城の中にあるのは金沢大学とハイデルベルグ大学だけだ、などと聞いていたが。

      返信

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