金沢に住んでいる4才の孫から手紙が来る。これまでは絵が書いてあって、わずかに名前だけが入っていた。名前が書ける以前は全部絵だった。ところが今日100%ちゃんとした文になった手紙が届いた。「なたしょうのおばあちゃんへ げんきでいてね いおりより」。話すのはまったく不自由なくなんでもぺらぺらとしゃべるのだが、やはり字を書いて手紙を書いてそれをどこかに出すことは特別なことのようである。
最近はインターネットの無料テレビ電話があるので、そのときに話したいことは全部話して満足して終了となるが、それでも字を書いて文章にして手紙を送ってくる。それは話すのとはまた別の格別な行為のようで、絵しかなかったときも母親(我が娘)によると、あれはしゃべりながら書いていたから字による手紙と同じもののようだった、ということであるから、書けるということはきっと楽しいことなのだろう。話すとはまた質的に異なったなにかなのだろう。
話すことも書くことも同じ程度の表現方法くらいの認識しかなかったが、どうやらそうではないようだ。負うた子に教えられ、とはこのことである。
あとから聞いた話;
手紙を書くときは手で隠して書いて母親に出してというらしい。手紙はやはり秘密がいいのか。出す相手によっても秘密にする度合いが違うらしい。