2020年3月29日の新聞に以下のような数値が載っている。(数値は28日現在の注あり)
米国 104,837人(1,711人)、イタリア 86,498人(9,134人) 中国本土 81,394人(3,295人) スペイン 72,248人(5,690人) ドイツ 51,124人(357人) フランス 32,964人 英国 14,579人(759人) スイス 13,213人(235人) 韓国 9,478人(44人) 日本 2,428人(65人)
記事のタイトルは「新型コロナウイルス感染者が多い国・地域」であり、日本のところには「感染者のうち、クルーズ船の712人を含む」と注がある。
米国とイタリアの友人から「気をつけて」とお見舞いのメールが来たが、「気をつけて」を出すべきはこちら側である。イタリアの友人は本島から離れたサルデニア島にいるので、「今のところ」は医療崩壊が起こっていないという。ただし、本島との行き来は飛行機もフェリーを閉ざされたままであるらしい。
福井県は3月18日に最初の感染者が報告され、その後25日に2例、26日に3例、27日に3例、28日に3例と合計12名の感染者となっている。いずれも福井市と越前市の方なので名田庄とは離れているとは思っているが、感染者がゼロであった頃とはどうしても緊張感が違う。
大学の頃の同級生でウイルスに詳しい友人に収束とはどういう状況のことなのか訊いてみた。素人としては、世間から感染者が減って病状も見られなくなれば見かけ上は収束したとすれば良いのだろうが、そこではウイルスはどういう状況になっているのか分からなくて電話した。
良き解説は簡単に見つかるかも知れないが、聞いた範囲でメモをしたい。これは専ら自分のためである。
電話の内容から少し離れて、これまで持っていた常識について少し。
自己増殖できる能力を持っているのを生物とすればウイルスは生物とは言えない。ウイルスは他の生きている細胞を借りて、そこを宿として(従ってウイルスがお世話になる生物を宿主という)、そこで増えていく。宿主が死滅すればウイルス本体もそれ以上増えることができない。宿主を死滅させるほど増殖するということはウイルス自体にとっても“良きこと”ではないのである。
「利己的遺伝子」などという言い方であたかも遺伝子に“意志“があるかのような理解の仕方で説明されることがあるが、人間が生物、ないし生物的に理解したくなる何か、を理解するとき、生き延びることこそがそれら生物ないし生物的なものの第一義的な目的であると、どうしてもなってしまうのでないか。これは進化論的発想でないのか。話がずれたがいつもそんなふうに感じる。ウイルスと宿主の関係を理解するときも同じようなことをしていると思う。
それでは収束とは、となると、ここから聞いたことになるが。まず人間の細胞に新型コロナウイルスが入る。そこで増殖する。宿主たるヒトがもっている免疫機構がそれに立ち向かう。それが成功し侵入したウイルスをやっつけることもあるだろうし、宿主がやられることもあるだろう。前者であろうと後者であろうと、いずれにしても、ヒトに入ったウイルスがその人の中にいる限りはそれ以上増殖はできない。
ところが周りには新鮮な、まだ新型コロナウイルスに対する免疫などできていない、言ってみればウイルスにとって“おいしい”場所がたっぷりあるのである。そこに行けば容易に増殖できるのである。感染した身体から出さないようにしなければならない、それが感染予防である。
友人の話はとてもよく分かった。
人類はいずれそのうち免疫を獲得して、爆発的感染など起こらないようになるだろうが、そんな悠長なことを待っていたら何人の人が死ぬか分からない。まず行うべきは感染防止行動である。
従って、感染予防の観点からいえば、いま人混みに紛れるような行動は、腹を空かせ餌を求めて平原をさまよっているライオンの群れの中に進んで入っていくようなものである。
いろいろ考えながら畑仕事をしている。スコップで土を耕していると土の中から小さな虫が出てくる。地上に出たそれはびっくりして逃げていく。この虫は新型コロナウイルスとは無関係に生きている、それは間違いないように思える。たまたま、「私」はHとして生きているが、もし虫だったらどんなだろう。
「もし虫だったら」とは、そもそもどういう想定なのか。Hの視点で虫の外から虫を見てはじめて、Hの視点を残したまま、「もし私が虫だったら」として問題にできるような事柄なら、何を問うているのか分からない。
ともかく早く新型コロナウイルスが収束してほしい。