早川博信
1944年(昭和19年)6月XX日、福井県遠敷郡知三村に生まれる。
遠敷郡も知三村も今はない。知三村と奥名田村が合併して名田庄村ができたが、それもいまはない。現在、大飯郡おおい町名田庄三重。
生まれたとき、末期ではあるがまだ日本は戦争状態にあった。そんな頃に生まれたのをいまはうまく理解できない。
1963年(昭和38年)大学に入った。金沢大学。卒研は「海水中のセシウム137の分析」であった。
1967年(昭和42年)名古屋大学の修士課程に入った。野外に出たくて、有機地球化学を専攻。長野県の湖でプランクトンの分解過程(生命体から無機体への過程)がテーマであった。
1969年(昭和44年)、まったくひょんなことから福井県職員になった。稼働前の原発周辺の環境放射能調査のために採用された。それから退職する2005年(平成17年)3月まで36年間、ずっと県庁職員として原発周辺の放射能・放射線を監視てしいた。
退職後、まったく別のことがしたく、高等学校の非常勤講師をしていたが、高校生は面白かったが6年ほど経ちだいぶくたびれて来たので学校を辞めたら、福島原発事故が起こった。放射線防護関係の学会仲間で古くからの親しい友人Sとこれは何かかしなければともちかけ、Sの尽力でネットで放射線に関する不安や心配に答えるサイトができ、2013年5月までそれに係わっていた。(このウェブサイトは2013年1月で質問を停止した。この間1800を超える質問が寄せられた。)
ホームページについて:
70歳を前に一念発起のホームページ開設である。なぜか。畑である。
妻は30年近く、完全(100%です!)無農薬・有機栽培の畑を続けてきた。退職後は小生もそれを手伝って来た。660坪の畑を無農薬・有機栽培でやってきた。しかしである、660坪はいかにも広い。どちらもいささかくたびれて来たが、これまで大切にしてきた畑をこのままにしておくのは忍びがたい。
そこで、若い人に手伝ってもらって、これまで作ってきたすばらしい土を継承できないかと思った次第なのである。「畑で野菜」のところに畑のことが書いてある。位置や作物や獣害などについて。それらを見て我が家の方針に賛同される方がおられたらその人たちに畑を提供し(なにがしかの賃貸料はいただくけれど)、この土地をこれからも守ってもらえたらと、勝手なことを思ってホームページを立ち上げた。
せっかくHPからが出来るのだから他のことも書こうとカテゴリを6つほど設けた。
「山・旅」
山に登り始めて50年ほどになる。社会人になってから一般の山岳会である福井山岳会に入った。山の会に入って本当によかった。外国旅行はこれまで年に1回ほどのペースで、仕事半分くらいだったが、続けてきた。山行記録や旅日記をここに載せていきたい。
インド旅行記はずいぶん前に、福井新聞に書いた短いエッセイは数年前にそれぞれ自費出版した。それらふたつの本はPDFで再録されている。
「311の会」
福島の事故は原発が集中している若狭地域に住んでいるものにとって他人ごとではなかった。会則にあるように、基本手な勉強を始めることの必要性を感じたものが集まって、小さな会だが月に一度集まっている。その活動報告をしたい。
「仏教など」
金沢大学で橋本芳契先生の授業を受けたのが仏教とかかわるようになった最初のきっかけである。以来50年、関心を持ち続けてきた。橋本先生に教えてもらった維摩経(ゆいまきょう)は、その時の録音テープを起こして本にした。『維摩経講話』(山喜房佛書林、平成4年)。
「写真」
中学1年の冬に父が亡くなったが、その父に小学校に上がる前から手ほどきを受けていたのが、カメラと写真である。年期と腕前は別かも知れないが、年期が入っているとおもっている。山や旅や日常の風景をここに載せたい。
「家族」
ホームページを開設することになったと子供たちに言ったら、そこに自分も何か出したいというのがいた。そのためのカテゴリーである。なにが出てくるのか。