小浜市中井にしだれ桜で有名な妙祐寺がある。このお寺の裏に位置する尾根は、長方形を45度西にかたむけた形で、ぐるりと一周して元に戻ってこられるようになっている。長方形の斜めの縦軸が五十谷川で、一周したあとで分かったことだが、この谷の源流とも言えるところが海側に抜ける峠であった。
2017年5月15日、福井山岳会のMさんと国道126号線のバス停「上中井」で待ち合わせる。中井郵便局の角を曲がり集落の奥まで。ちょうど家の近くで仕事をされていた方に空き地に車を止めていいか訊ね、「いいよ」と言われたのでそこに駐車して、竹藪の尾根に取り付く。(これは秘密だけれど、かつて山で大事な車のキーを落としたことがあったので、キーは山には持って行かず、車のとても見つかりそうもないところに隠して、山に入るようにしている)
(四等三角点、大黒山。尾根の途中にあり)
8時半、歩き始める。まず138Mの四等三角点へ。ここの登りがきつく、大変だった。20分ほどで着いた。この三角点は国土地理院の点名では「大黒山」になっている。ところが北北東に延びる尾根を登って、ここには転がしのテレビ用のケーブルが上まで延々と延びていたが、このケーブルの終点であるもう使われていないアンテナが設置されているところも「大黒山」と表示があるのである。地元の人はこのピークを大黒山と呼んでいるみたいで、ややこしい。ピークには9時35分着。
このあと、真北に進み小さなピークに出る。ここから若狭湾を望むことができた。遙か向こうにかすんで常神半島も見える。
「ボンハタへ」の案内板に従って西に進む。
「立派な楠が多いですね」とMさんは盛んに感心しておられた。確かに大きな立派な木が尾根の両脇に立っている。ヤマモモの木もたくさんある。
小さな登り下りを繰り返したが、途中400m付近の広い尾根で枝尾根に入り下り勾配が余りにも急なので、これはおかしいと引き返す。5分ほどの登り返しであった。元の尾根に戻ったが、現在地を正確に把握できずどちらに進むと正しい方向になるのか、しばらく二人で検討する。そのうち主尾根が見えて来て(それがどうしてだったのか、定かに覚えていない)、それまで付いていた赤いテープも現れて、これで間違いないと確信できた。やれやれであった。
365mの基準点(地図参照)で南西方向に曲がり、数10mの登りのピークを過ぎて下りたところが鞍部で古い道の峠であった。
(上の写真は飯盛側に下りる方の道)
南東の相生地区から北西の若狭湾側の飯盛地区に下りている道を認めることができる。かつてよく使われていたのでないだろうか。
点名が「相生」の三等三角点(393.2m)まで行って昼食にしようと決め、「三角点から伸びている主稜線と出会うところで左に曲がれば間違いなく着けるから」、等と話しながら歩き、12時半に着いた。
ここからは終点の妙祐寺までは下る一方だが、間違えそうだなと気になっていたところで、やはり少し迷走した。ここは比較的すぐに元の尾根に戻ることができた。それにしても低い山の尾根を正確にたどるのはとても難しい。地図と磁石だけでそれをする、それがとても面白い。
快調にどんどん下っていたが、山城に特有の堀切と堅掘が何度も現れた。尾根が凹んでいる。昔の人はどれほどの労力で作ったのか、さぞや苦労であったろうと想像する。
(写真ではよく分からないが、歩いていると、下りてくる尾根が深く切り取られているのが分かる)
堀切;峰や尾根を堀で切った山城特有の防御手段。これを設けることにより尾根筋からの連続性を意図的になくすことができ、敵の侵入を阻むことができる。
堅掘;山の斜面に等高線に対して直角に掘られた空堀(水のない掘)。敵が山腹を横に移動するのを防いだり、敵が登ってくるのを防ぐ目的がある。
注;掘切と堅掘の説明は、「城址の用語解説」による。(http://www.geocities.jp/tonosengoku/cg/kaisetsukaisetsu.html)
Mさんから下山後送っていただいた、大森宏著『戦国の若狭』には、この山城は谷小屋(たにのこや)城といい、名田庄谷最大の城で、城主は寺井賢仲、室町中期頃には存在したと考えられる、とある。すごいものを見せてもらった。
(書物より引用)
(写真左側、少し高くなっているが、これがこの辺り一面を取り囲むようにある。これが土塁)
広く平らに切った山城の址も見た。最後はかなり急な下りで、妙祐寺の裏に3時に着いた。地図と磁石だけの歩きは緊張したが面白かった。
「GPSは最後の最後の手段ですね、もっともわれわれ二人ともそのような機器は持っていないけれどね」。