『はじめての仏教学』 (東本願寺出版、2020年5月28日)


表紙

畏友の宮下晴輝さんから新著をいただいた。『はじめての仏教学』(東本願寺出版、2020年5月28日第1刷)

帯には「老病死に苦悩した青年ゴータマは“仏陀”になった」とあり、また「仏教の基本的な思想を優しく解説した入門書」ともある。

目次は下記の通りである。

第1章 仏教が成立した時代と背景
お釈迦さまはどんな人だったのか?
お釈迦さまが生きた時代と社会

第2章 青年ゴータマの問い
青年ゴータマの出家-四門出遊の物語
老病死-仏教の問題領域
無常を知る

第3章 歩み出した沙門ゴータマ
出家する心
沙門ゴークマの苦行
苦行の放棄

第4章 ゴータマが仏陀になった
菩提樹下での思索

第5章 仏陀の説法
初転法輪に向って
最初の説法
無我の教説

第6章 心を一つにして歩む者たちの集い
仏法僧-三宝
仏弟子たち
仏弟子の信仰
四姓平等

第7章 大般涅槃と経典の編纂
晩年のお釈迦さま
大般涅槃
阿含経の成立

あとがき

仏教を学ぶとは仏陀となったお釈迦様の説かれたことに耳を傾けることであり、それは普通の青年だったゴータマ・シッダッタがいかにして仏陀になったか、その歩みを探ることでもあるので、仏教学は仏伝に聴くことだと言えるだろう。そのことは上記の目次を見てもうかがえる。

書名には「はじめての」が付いているが、これは帯の通り読めば入門書の意だろうが、それに加えて仏教学のこのような書物ははじめてでないだろうか、という著者の自負と矜恃があるように私には感じられた。

本の内容に入る前に宮下さんのことを少しだけ;
(現在、大谷大学名誉教授。真宗大谷擬講)

私は橋本芳契先生に「維摩経」を教えていただき、そのあと誰かと仏教を勉強したいので紹介していただけませんかとお願いすると、「大谷大学の宮下のところに行け」と言われ、宮下さんと「論」を読む勉強が始まった。その後宮下さんが大谷大学を定年退職するまで、月に一度(彼は多忙な人だったので必ずしも毎月ではなかったが)、京都の大谷大学に行って、最初は『中論』を10年かけて読み終え、その後は『大智度論』を定年退職まで、それぞれ読んだ。『大智度論』は宮下さんの定年退職で途中で終わり、読了できなかった。(二つとも龍樹著の仏教書)

向こうはサンスクリットも読める仏教学の大学者でこちらはアマチュアの仏教ファンだったが、土曜日の午後1時から5時まで二人で『中論』や『大智度論』の一字一句を追いかけていた。

『中論』は三枝充悳訳の『中論』(上・中・下、第三文明社 レグルス文庫)を用い、読み切るのに10年かかった。私は日本語訳しか読めないので、よく分からない箇所に来ると宮下さんはサンスクリットに戻って教えてくれた。

『中論』は一人で読むと気が狂うような書物だった。因(原因)と果(結果)を分けて現象を見ると、因の中に果がすでに入っていたり、その逆に果の中に因が入っていたり、そもそも因と果とを分けることが困難なのだと言うような説明が、薪と火を例に出して詳細に論じられていた。

難解な書物であるが、その最初に帰敬偈(ききょうげ)があり、仏教の書であることを見落としてはいけないと教えられた。
帰敬偈;
能く是の因縁を説き 善く諸の戯論を滅す
我れ稽首して礼す 仏を 諸説中第一なりと

『大智度論』はむずかしいと言うより楽しい書物だった。これは『摩訶般若波羅蜜経』(大品般若経)の解説書で「國譯大藏經」の「論部 1-4」の4冊からなり、いずれもとても分厚い本だった。それの最初の一冊の途中で終わった。お経(大品般若経)を少しずつ引用し、その部分の説明が延々と展開される。

なぜ、お釈迦さまの頭にはイボイボがあれほどあるのかとか、後光が差しているがあれはなぜなのかとか、六波羅密(布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧)の一つでも実践さればそれでもう十分で悟りが得られ、なぜなら云々だからと何ページも説明が続いていた。

これら二つの読破(『大智度論』残念ながら読破まで行かなかった)に付き合っていただいた。
つまり、宮下さんには大変お世話になったのである。

本書に戻ると、これは、お釈迦さま・仏陀とは誰だったのか、何だったのか、何なのかを、ずっと訊ねてこられた学徒の、敬虔な仏教徒の、仏教に対する信頼の書である。

第1章から第7章まで、どの章にも書きとどめておきたいところが何カ所もあったが、第5章「仏陀の説法」から、「梵天勧請」(p118~)と「無我の教説」(p135~)の一部を取り出して書く。

・「梵天勧請」(p118~)
沙門ゴータマは菩提樹のもとで仏陀(覚者)となったあと、解脱の安らぎを味わう。そして、
「私が目覚めた法は、深遠で、見がたく、理解しがたいものである。」との思いがわく。

「世間の人びとはといえば、執着を楽しみ喜んでいる。このような人びとが、苦しみに因があるという縁起の道理をみることができない。私が法を説いたとしても、人びとが理解しないならば、それは徒労ではないか」

そのあと、「人びとに害があるのではと思い、微妙で卓越した法を説かなかったのだ」とも出ている。

最終的には天の神の勧め(梵天勧請)により仏陀は人びとに法を説こうと決心するのだが、ここで三つよく分からないことがある(本に書かれていることでなく、自分が分からないこと)。

一つ;
仏陀が目覚めた法は甚深難解(じんじんなんかい)であるというその理由は、「人びとの執着を楽しみ喜ぶ心では、苦しみについての真実は見ることはできません」と本書には書かれている。

仏陀の目覚めた法は論理的には、四聖諦や八正道や十二支縁起で展開される論理なので、十二支縁起の最初の「無明」が分かれば、あとはドミノ倒しのように「老死」まで行ってしまう。「老死」の問題は解決される。

従って、「深遠で、見がたく、理解しがたい」とは、四聖諦や八正道や十二支縁起等の、それらの論理構造がむずかしいのでなくて、慧眼を起こさせた何か、正覚のために必要な何かがあって、つまり「四聖諦や八正道や十二支縁起」を言い出すために必要な何か、これらを気づかせてくれた何かがあって、それらは言葉にできず、仏陀はそのことを知っていて、そのようなことを語るのが「むずかしい」と言われたのでないか。

あるいは、「分かる」とは論理的なものではなく、何か特別な、ある基本的なことに関して解決したいという心構えのようなものが不可欠で、それがない人は理解できない、教えの門の中に入る資格さえない、そんなことになっているのか。

本書の説明は後者である。
「法の問題というより、それを受け取る心の問題なのです」
「だから、「耳あるものたちは、信仰をおこすがよい」と言っているのでしょう」と本書にある。

二つ;
「梵天勧請」を受けて、仏陀は「人びとに害があるのではないかと思い、微妙で卓越した法を説かなかったのだ」と答えておられる。「人びとに害がある」とはどういうことで、なにか具体的な記述をした経はあるのかと宮下さんに訊いたが、具体的な記述が出ている経はないとのことだった。

三つ目;
人びとにとって甚深難解(じんじんなんかい)な法を、仏陀は梵天勧請でなぜ説く気になったのか。聴く側から言えば、それが仏陀の慈悲だとなるのだが、説くほうはどうなのか。

真理には自ずから語り出す力がひそんでいて、それは語らないではおかないようになっている、梵天勧請の形を取っているが、語ることはもう慧眼が生じた時点で、真理を見た時点で、決まっていたことでないのか。

・「無我の教説」(p135~)
法を説こうと決心されたお釈迦さまはその最初の相手として、長く一緒に修行した五人の比丘を選ばれる。彼らは正覚の地から数百キロ離れたサルナート(鹿野苑、ろくやおん)にいた。お釈迦さまはそこに赴かれる。

最初の説法は「四聖諦の教説」であった。五人の比丘のうち、コンダンニャに浄らかな法眼(きよらかなほうげん)が生じた。

引用;
「その時、お釈迦さまは感きわまり「コンダンニャはさとった、コンダンニャはさとった」と声を出されたのです。」
そして、やがてほかの四人の比丘たちにも法眼が生じた。

この部分を読んでいて思ったこと;
このようなことは現代でも起こっているのだろうか。もし起こっているのなら、法眼が生じさせた人と、生じた人はどこでどうしているのだろうか。あるいは、そんなことは現代では起こらないのだろうか。起こらないのならなぜなのか。

しかし、これは微妙な問いになる。オウム真理教はこの延長線上にあり得る。
「私はグルである」と言った人とそうと認めて付いていった人がいたのだから。

最後の第7章は「大般涅槃と経典の編纂」である。
ここに「結集」のことが出てくるので、それらの部分を引用して本書の紹介を終えたい。

「彼(引用者注;マハーカッサパ(摩詞迦葉))は、お釈迦さまの教えが間違って伝えられたり失われたりする前に、正しく伝承されていくようにしようとしたのです。すでに道を成就している仏弟子五百人を選び出し、その全員で、お釈迦さまによって説かれた教説と、制定された規律とを確認する集会を開いたのです。それを結集と言います。一つひとつの教説
や規律をみなで声を出して確認していったので、合誦(一緒に唱和する)とも言います。」

「そしてそこには、教説を直接に聞いた者たちが集まっているのですから、みな身に覚えがあるものたちなのです。例えば、鹿野苑で最初の教説を開いた五比丘の一人コンダンニャは、その時すでに八十半ばの老人でしょう。アーナンダが四聖諦の教説を唱えだした時、「これは私のために説いてくださったものだ」と、その感激のあまり失神してその場で倒れてしまいました。しかも一つの教説が唱えられるたびに感きわまって倒れたと言われています。これはチベットにのみ伝わる逸話ですが、仏弟子たちの思いがとてもリアルなので紹介しました。」

1980年の夏、私は第1回結集がなされたという七葉窟を訪れた。ラージギルの近くだった。下まで土の道を歩いて階段を上ったところに七葉窟があった。階段の途中に角を持った大きな牛がいてこわごわ横を通り抜けた。「コブラがいるから中に入らないように」と注意書きの看板が立っていた。ここに仏弟子達が集まったのか、ここで合誦されて経ができたのか。正覚の地ブッダガヤや初転法輪の地サルナートを訪れたあとのことであった。



Author

早川 博信

早川 博信

 

一念発起のホームページ開設です。なぜか、プロフィールにその詳細があります。カテゴリは様々ですが、楽しんでもらえればハッピーです。


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