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	<title>辛島ディヴィッド著『Haruki Murakamiを読んでいるときに我々が読んでいる者たち』（みすず書房、2018年9月） へのコメント</title>
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	<description>カテゴリは様々ですが、楽しんでもらえればハッピーです。</description>
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		<title>早川 博信 より</title>
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		<dc:creator>早川 博信</dc:creator>
		<pubDate>Wed, 06 Mar 2019 11:20:23 +0000</pubDate>
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		<description><![CDATA[懐かしかった。もう50年以上前になる大学時代のことを思い出していた。しかし、情けないことに、コメントにあった大沢衛先生も大場先生もまったく何も残っていない。ニコチン中毒とか、本当によく覚えているね。
ドイツ語の授業で、欠席した者の代わりにみんで代返をしたら次から次へと名前が呼ばれて、それらすべてが順に違う人物だったので、最後は「はい」と言えるものがいなくて、結局代返がばれたこと、覚えていますか。（本筋からそれてごめん）
金沢大学は、今や、どこにあったのか、わからない状態になっている。お城に入っても、ここに大学があったと書いてない。入った当初は世界で城の中にあるのは金沢大学とハイデルベルグ大学だけだ、などと聞いていたが。]]></description>
		<content:encoded><![CDATA[<p>懐かしかった。もう50年以上前になる大学時代のことを思い出していた。しかし、情けないことに、コメントにあった大沢衛先生も大場先生もまったく何も残っていない。ニコチン中毒とか、本当によく覚えているね。<br />
ドイツ語の授業で、欠席した者の代わりにみんで代返をしたら次から次へと名前が呼ばれて、それらすべてが順に違う人物だったので、最後は「はい」と言えるものがいなくて、結局代返がばれたこと、覚えていますか。（本筋からそれてごめん）<br />
金沢大学は、今や、どこにあったのか、わからない状態になっている。お城に入っても、ここに大学があったと書いてない。入った当初は世界で城の中にあるのは金沢大学とハイデルベルグ大学だけだ、などと聞いていたが。</p>
]]></content:encoded>
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		<title>鈴木利郎 より</title>
		<link>http://hayakawa-tobe.net/?p=1896#comment-11238</link>
		<dc:creator>鈴木利郎</dc:creator>
		<pubDate>Thu, 28 Feb 2019 01:51:19 +0000</pubDate>
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		<description><![CDATA[『Haruki Murakamiを読んでいるときに我々が読んでいる者たち』は読んでいませんが、翻訳には関心があります。
外国文学をすらすらと読めれば、翻訳は必要なくなりそうだが、そんなわけにはいかないのが現状。
英和辞典を見ただけでも、一つの単語に多種の意味が書かれており、
小説においては更なる深さ広さのある意味合いがあり、
翻訳には畏敬の念を抱いています。まして詩であれば神技です。

翻訳本は読んでいても読み取っていない不安を感じますが、
日本文学にしても繰り返し読むと味わいが異なってくる。
種々の読み方があるように、
翻訳小説に関しても複数の訳があっても差し支えないはずだ。
複数の読み方があるように複数の訳があっても差し支えないはずと考えています。

翻訳で近年話題になったのは
亀山郁夫訳の「カラマーゾフの兄弟」、誤訳も指摘されていますが、最新訳で書店で平積みされている。
私にとっては米川正夫訳がなじみに深いのですが、米川正夫訳を書店では見ることがない。
古い訳本は、欠点もあるだろうが、新訳に駆逐されてしまうのだろうかと思います。
なお、亀山訳は読んでいません。

比較的最近、ハーディの著作を読もうと思い、学生の頃英語の授業で教壇に立ってくれた大沢衛先生を
思い出し、大沢先生訳の「帰郷」を読もうと思っても、書店では見つからない。
結局は図書館から借りて読んだわけである。
(ネットで購入すればないわけではないのですが)
授業で学んでいたとき、ヒースの荒地はてっきりスコットランドの風景と思っていたのが南イギリスだったのは
全く記憶はいい加減なものです。
古い訳本は消えてしまうのかさびしいものです。

最近とはいっても10年以上前ですが、話題になった訳本は
既に読まれてたと思いますが、サリンジャー作「The catcherin the rye」の
村上春樹訳「ザ・キャッチャー・イン・ザ・ライ」白水社2003年刊です。
既に野崎孝訳「ライ麦畑でつかまえて」1964年刊(白水社)、新書版は1984年刊があり、これと比較されたことは記憶に新しいことです。
題名については原作が「The catcherin the rye」であることから、野崎訳より村上訳が正確といえましょうが。
「ライ麦畑でつかまえて」も作品の中で関連があり、場違いなものとはいえないものです。
作品中、I&#039;d just be the catcher in the rye and all.を村上は「ライ麦畑のキャッチャー、僕はそういうものになりたいんだ。」(村上は親切に注に書いている。)
一方、野崎は「ライ麦畑のつかまえ役、そういうものに僕はなりたいんだよ。」と訳している。
しかし、大きな違いは野崎訳ではしゃべりまくるような文体なのに、村上訳では話す、あるいは日記のような感じかと思います。
野崎訳に馴れ親しんだ人にとっては違和感を憶えたかと思います。

作品が書かれ、完成し刊行したのは1951年、その時代の雰囲気を考慮にいれるか、時代を超える普遍性を考慮するかによっても変わるでしょう。
スマホのGoogle翻訳で「The catcher in the rye」が「ライ麦畑でつかまえて」となるのには笑ってしまいます。
マイナーなアプリでは「ライ麦の中の捕手」です。

村上春樹の「風の歌を聴け」が芥川賞候補になった時、選評で、井上靖ら他の選者は触れていませんでしたが、
丸谷才一は「・・アメリカ小説の影響を受けながら自分の個性を示さうとしてゐます」、
大江健三郎は「今日のアメリカ小説をたくみに模倣した作品もあったが、・・」と書いており、
村上春樹訳がなまなかのものではないと考えています。

村上春樹訳は単行本に解説を書くことサリンジャーから拒否されてますので、雑誌「文学界」に解説を書き、
そこに「・・・新訳の依頼を受けたとき、野崎氏の翻訳をそのままのかたちで残すという前提で、喜んで引き受けさせていただいた。」とある。


サリンジャーについては高校時代には知らず、
大学の大場先生の英語授業でサリンジャーの「A Perfect Day for Bananafish」を習ったときが、はじめてです。
大場先生がニコチン中毒であることは憶えていますが、残念ながら下の名前は憶えていない。]]></description>
		<content:encoded><![CDATA[<p>『Haruki Murakamiを読んでいるときに我々が読んでいる者たち』は読んでいませんが、翻訳には関心があります。<br />
外国文学をすらすらと読めれば、翻訳は必要なくなりそうだが、そんなわけにはいかないのが現状。<br />
英和辞典を見ただけでも、一つの単語に多種の意味が書かれており、<br />
小説においては更なる深さ広さのある意味合いがあり、<br />
翻訳には畏敬の念を抱いています。まして詩であれば神技です。</p>
<p>翻訳本は読んでいても読み取っていない不安を感じますが、<br />
日本文学にしても繰り返し読むと味わいが異なってくる。<br />
種々の読み方があるように、<br />
翻訳小説に関しても複数の訳があっても差し支えないはずだ。<br />
複数の読み方があるように複数の訳があっても差し支えないはずと考えています。</p>
<p>翻訳で近年話題になったのは<br />
亀山郁夫訳の「カラマーゾフの兄弟」、誤訳も指摘されていますが、最新訳で書店で平積みされている。<br />
私にとっては米川正夫訳がなじみに深いのですが、米川正夫訳を書店では見ることがない。<br />
古い訳本は、欠点もあるだろうが、新訳に駆逐されてしまうのだろうかと思います。<br />
なお、亀山訳は読んでいません。</p>
<p>比較的最近、ハーディの著作を読もうと思い、学生の頃英語の授業で教壇に立ってくれた大沢衛先生を<br />
思い出し、大沢先生訳の「帰郷」を読もうと思っても、書店では見つからない。<br />
結局は図書館から借りて読んだわけである。<br />
(ネットで購入すればないわけではないのですが)<br />
授業で学んでいたとき、ヒースの荒地はてっきりスコットランドの風景と思っていたのが南イギリスだったのは<br />
全く記憶はいい加減なものです。<br />
古い訳本は消えてしまうのかさびしいものです。</p>
<p>最近とはいっても10年以上前ですが、話題になった訳本は<br />
既に読まれてたと思いますが、サリンジャー作「The catcherin the rye」の<br />
村上春樹訳「ザ・キャッチャー・イン・ザ・ライ」白水社2003年刊です。<br />
既に野崎孝訳「ライ麦畑でつかまえて」1964年刊(白水社)、新書版は1984年刊があり、これと比較されたことは記憶に新しいことです。<br />
題名については原作が「The catcherin the rye」であることから、野崎訳より村上訳が正確といえましょうが。<br />
「ライ麦畑でつかまえて」も作品の中で関連があり、場違いなものとはいえないものです。<br />
作品中、I&#8217;d just be the catcher in the rye and all.を村上は「ライ麦畑のキャッチャー、僕はそういうものになりたいんだ。」(村上は親切に注に書いている。)<br />
一方、野崎は「ライ麦畑のつかまえ役、そういうものに僕はなりたいんだよ。」と訳している。<br />
しかし、大きな違いは野崎訳ではしゃべりまくるような文体なのに、村上訳では話す、あるいは日記のような感じかと思います。<br />
野崎訳に馴れ親しんだ人にとっては違和感を憶えたかと思います。</p>
<p>作品が書かれ、完成し刊行したのは1951年、その時代の雰囲気を考慮にいれるか、時代を超える普遍性を考慮するかによっても変わるでしょう。<br />
スマホのGoogle翻訳で「The catcher in the rye」が「ライ麦畑でつかまえて」となるのには笑ってしまいます。<br />
マイナーなアプリでは「ライ麦の中の捕手」です。</p>
<p>村上春樹の「風の歌を聴け」が芥川賞候補になった時、選評で、井上靖ら他の選者は触れていませんでしたが、<br />
丸谷才一は「・・アメリカ小説の影響を受けながら自分の個性を示さうとしてゐます」、<br />
大江健三郎は「今日のアメリカ小説をたくみに模倣した作品もあったが、・・」と書いており、<br />
村上春樹訳がなまなかのものではないと考えています。</p>
<p>村上春樹訳は単行本に解説を書くことサリンジャーから拒否されてますので、雑誌「文学界」に解説を書き、<br />
そこに「・・・新訳の依頼を受けたとき、野崎氏の翻訳をそのままのかたちで残すという前提で、喜んで引き受けさせていただいた。」とある。</p>
<p>サリンジャーについては高校時代には知らず、<br />
大学の大場先生の英語授業でサリンジャーの「A Perfect Day for Bananafish」を習ったときが、はじめてです。<br />
大場先生がニコチン中毒であることは憶えていますが、残念ながら下の名前は憶えていない。</p>
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